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河内キリシタン

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ジョルジュ弥平次が小西行長から任された熊本県・愛籐寺城天守跡

竹延神父の河内キリシタン逍遥記 

第10話

「置かれたところで咲きなさい!」

―九州で宣教した河内キリシタン・ジョルジ結城弥平次―

 

 十数年前のこと、病院に入院している身動きが取れない方から、「神父さん、一生のお願いです。『置かれた場所で咲きなさい』とう本を買ってきてくださらないでしょうか。」と言われたことがあり、書店で買い求めてお届けしたことがある。

その本は、岡山ノートルダム女子大学の学長をつとめられた故シスター渡辺和子が書かれたもので、書店の店頭に平積みされて置かれていたのでわたしも自分の分を求め読んでみた。要旨は、“置かれた境遇に不平不満を言うのではなく、その場所で最善を尽くすことによりあなたが幸せになりなさい。“といったものであろうか。

 

 河内キリシタン逍遥記の第9話で砂・岡山のキリシタン、結城一族の事を書いた。そこでも触れたジョルジュ結城弥平次のその後の足取りを追いたくなり、昨年(2022年)9月に熊本県と長崎県を訪れた。旅を終えて、「弥平次こそ『置かれた場所で咲きなさい』を実践したキリシタンだ!」と思うようになった。数冊の参考文献※をもとに弥平次についての出来事を年表にまとめると次のようになる。

 

・1544年 美濃(岐阜県)で生まれる。

・1564年 飯盛山城で三好長慶配下の70数名の武士とともにヴィレラ神父から洗礼を受ける。奈良で洗礼を受けた叔父の砂・岡山領主の結城左衛門尉がこの集団洗礼のきっかけとなる。

・数年後、主人の結城左衛門尉、毒殺される。

・1572年 左衛門尉の息子結城ジョアンが洗礼を受けて岡山領主となり叔父のジョルジ弥平次はジョアンの後見人となる。

・1577年 砂の教会が手狭になったため、領主結城ジョアンと叔父のジョルジは畿内で最も荘厳な教会を建てる。

・1578年 このころ砂・岡山のすべての領民(約3,500人)がキリシタンとなり、河内キリシタンは全盛期を迎える。

・1583年 河内岡山領主結城ジョアンは豊臣秀吉により他国に左遷される。教会が新領主によって破壊されるのを恐れた高山右近の願いによって豊臣秀吉は岡山の教会を大坂城下に移築することを許可する。ジョルジ弥平次は教会移築の実務を担う。

・1584年 弥平次が後見人として支えてきた結城ジョアンは小牧・長久手の戦いで戦死する。子の後弥平次は一時高山右近に仕える。

・1587年 秀吉によりバテレン追放令が出される。高山右近は領地明石を秀吉に返納する。

弥平次は秀吉におびえる小西行長を説き伏せ、行長の領地小豆島で高山右近やオルガンティーノ神父をかくまう。弥平次は小西行長に仕える。      

・1588年 肥後(熊本県)の南半分の領主となった小西行長とともに九州に移る。行長の領地の東の端、愛籐寺城の城代になる。在任中に領民4,000名をキリシタンに改宗させる。(愛籐寺城址からはクルス瓦が出土)

・1600年 関ヶ原の戦いに敗れた小西行長が処刑される。弥平次は行長亡き後の肥後領主加藤清正からキリシタンであることで迫害を受け、浪人となる。

・1602年 キリシタン大名の有馬晴信に招かれ、金山城(長崎県島原半島北部)の城代となる。

・1609年 晴信の命により、長崎港に停泊中のポルトガル船マードレ・デ・デウス号の襲撃に参加する。

・1612年 主君有馬晴信は、岡本大八事件(晴信と家康に近いキリシタン武士大八との贈収賄事件)で徳川家康の命により処刑される。息子直純は棄教し、家康のキリシタン禁教令に従ってキリスト教を禁止する。

・1613年 有馬直純により、ジョルジ結城弥平次は長崎へ追放される。(その後の消息は不明だが山下貞文氏の調査によれば棄教した可能性あり)

 

 弥平次自身はキリシタン大名ではなく、いつもキリシタン領主を補佐する立場だった。彼のキリシタン人生の前半は、結城左衛門尉・ジョアン父子、高山右近など大阪の霊性の高いキリシタン大名に仕えて、彼もその影響を受けて主人とともに切磋琢磨しあい、徳を身に着けたのだと思う。しかし、九州に移動してからは必ずしも主人に恵まれたとは言えない。熊本での領主小西行長は、豊臣秀吉に面従腹背した人生を送った。行長は秀吉の前では信仰を捨てたかのように振舞った。だからこそ、肥後半国を秀吉から与えられたにもかかわらず、行長のお膝元宇土城では教会を建てなかった。秀吉の命令で朝鮮に出兵することになった小西行長は、秀吉をだましながら中国・朝鮮と和平工作をするがうまくいかず、秀吉の死後、関ケ原の戦いで徳川家康に敗れ、刑死し、領地は隣国の加藤清正に併合されてしまう。

 

 その後の主人有馬晴信は、弥平次に長崎に停泊しているポルトガル船を襲撃させた。弥平次は主人の晴信に理由があるとはいえ、決してカトリック国の船を攻撃することなど本意ではなかったろう。岡本大八事件は、キリシタン武士同士の教会を辱めるような事件だ。晴信が処刑された後、ジョルジ弥平次の新しい主人となった有馬晴信の息子直純はキリシタンの妻を離縁し、家康の孫娘と再婚した後、棄教し、弥平次を長崎に追放する。

 このような主君の下で城代を任せられた熊本の愛籐寺城でも、島原の金山城でも弥平次は領地に教会を建て住民を信仰に導いた。本当にカトリック信者としてよく生きてくれたと思う。

 

 最後に彼が追放された長崎は、ザビエルとともに来日したトルレス神父が亡くなる前に大村純忠と相談し、その後にイエズス会に与えられた聖なる町である。イエズス会の所有では無くなってからも、全国から迫害されたキリシタンを暖かく受け入れた“逃れの町”だった。

 

 超恵まれた環境に居ながらいつも不平と弱音ばかりを口にするダメ神父のわたしは、こう言う。「弥平次さん、あなたは本当によく頑張りました。この世にいる時、あんなにあちこちに場所を移動させられ、後にはろくに水も与えられなかったのに、置かれた場所で立派な花を咲かせてくれました。いまは最高の主人イエスさまのもとでどんな花を咲かせておられるのでしょうか。」

 

※参考文献(年表部分)

・2014年山下貞文「郷土資料から読み解く 謎のキリシタン武将・結城弥平次」嶽南風土記第21号

・2015年村上始「河内キリシタンの動向と展開」『飯盛山城と三好長慶』戎光祥出版

・2016年中山圭「天草に来た河内キリシタン」『戦国河内キリシタンの世界』批評社

・2018大石一久「畿内から長崎・天草へ―キリシタンの広がり―」『大阪春秋No.169』新風書房


 

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長崎県島原半島・金山城(結城城)跡

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