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今月のメッセージ

今月の教会新聞に掲載している、司牧チームによる「巻頭言」です。教会新聞は、各教会(大東門真今市)にございます。他にも、様々な記事を掲載しておりますので、教会にお立ち寄りの際は、是非、ご一読ください。

2023年2月号 掲載

『トルレス神父を知っていますか?』

竹延 真治 神父

 フランシスコ・ザビエルは日本にキリスト教を伝えるために1549年8月15日に鹿児島に上陸した。しかし、ザビエルは鹿児島の後、平戸・山口・大分にしばらく住み、その間に京都で日本国王に布教許可を得ようとしたが天皇に謁見することさえかなわず、寒さと餓え、疲労困憊、人々からの軽蔑・非難中傷に直面する。わずかの日本人に洗礼を授けただけで、2年と3ヵ月後に日本を去る。いったん、インドのゴアにもどり、今度は中国への布教を試みるが、広東省の沖にある上川島で熱病にかかり帰天する。
 戦国時代の終わりには現在の日本のカトリック人口に匹敵する40万人のキリシタン(カトリック信者)が生まれたというが、それはザビエルの遺志を受け継いだ宣教師たちがいるからだ。その中でも、日本の教会の土台を築いたと言っても過言ではない人、その人がトルレス神父だ。恥ずかしながら、昨年9月に九州を旅する前まで、わたしはトルレス神父のことをほとんど知らなかった。
 ザビエルは1人で日本に布教に来たのではない。イエズス会の仲間2人がザビエルと同じ船で鹿児島に上陸していたのだ。2人の内の1人はスペインのバレンシア地方出身の39歳のコスメ・デ・トルレス神父、もう一人は同じくスペインのコルドバ出身23歳のファン・フェルナンデス修道士である。ちなみにザビエルは、来日時は43歳でスペインとは言ってもバスク語を話すナバラの出身だ。ザビエル以外の2人は日本に留まり、日本での宣教に生涯をささげ、日本に骨をうずめた。
 若くして来日し、日本語をよく話せるようになったフェルナンデス修道士は大人や子どもの信仰教育や宣教師の語学教育や通訳の面でトルレス神父を支えた。
 一方で、ザビエルの後を継いで20年間もの長きにわたって日本の布教長としてイエズス会の宣教師たちと日本の教会のかじ取り役を果たしたのがトルレス神父だ。
 スペインの教区司祭であったトルレス神父は、最初は神学校のラテン語教授に任命されるが、メキシコでスペイン艦隊付の司祭に応募するという異色の経歴を持つ。艦隊が遭難したモルッカ諸島でポルトガル人に投降した後、ザビエルと出会い、ザビエルに魅了され、イエズス会に入会する。ザビエルが去った後の日本で彼の脳裏に焼き付いていたのは、憔悴しょうすいしきったザビエルの後姿かもしれない。トルレス神父はザビエルを“師(マエストロ)”と呼び、その布教方針を徹底して受けついだ。日本人の生活様式に自分たちを合わせ、決して肉を食べなかったという謙遜さ、病者・弱者の中にイエスを見出す、下からの宣教を基本姿勢とした。その一方、医者で商人出身のアルメイダ修道士に日本初の総合病院を開設させ、横瀬浦で大村純忠に洗礼を授け、淋しい漁村に過ぎなかった長崎を南蛮船が廻航する港にし、キリシタンにとっての聖地となるきっかけを作ったのも他ならぬトルレス神父だ。
 1570年に亡くなる直前に来日したカブラル神父に布教長を引き継ぎ、天草の志岐しき(現:苓北町れいほくまち)で行われたカブラル布教長の下での宣教師会議に参加してまもなく帰天した。葬儀を司式したのは、河内の飯盛山で三好長慶配下の武士七十余名に洗礼を授けたあのガスパル・ヴィレラ神父だ。昨年、天草を訪れた時に立ち寄った志岐の町はずれで、「トルレス神父の墓を探しています。」と書かれた立札を見かけた。天草・島原の乱でキリシタンがほぼ絶滅し、今はほとんどカトリック信者がいないこの町の人は、トルレス神父のことを知っているのだ。

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