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今月のメッセージ
今月の教会新聞に掲載している、司牧チームによる「巻頭言」です。教会新聞は、各教会(大東・門真・今市)にございます。他にも、様々な記事を掲載しておりますので、教会にお立ち寄りの際は、是非、ご一読ください。
2025年8月号 掲載
心の平和への道
タラン・スン・ニュ・イ神父
私たちが生きるこの時代は、絶え間ない情報、緊張、そして不確実性に満ちています。スマートフォンの通知、職場のプレッシャー、病気、人間関係の不安、将来への心配——そのどれもが、私たちの心の中に小さな波を立て、時には荒れ狂う嵐のようになってしまいます。多くの人が休息を求め、癒しを探し、何よりも「心の平和」を渇望していることでしょう。
では、カトリック信者として、私たちはどこでその「平和」を見つけられるのでしょうか? その答えは、いつの時代も変わらぬ光を放ち続ける聖書の中にあります。
まず、イエスご自身が弟子たちにこう語られました。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」(ヨハネ14:27)。この「イエスの平和」とは、世が与える一時的な安心感や表面的な静けさとは異なります。それは、十字架の苦しみのただ中でも揺らぐことのない、神との深い交わりからくる静かな確信です。私たちは、日々の問題を完全に取り除くことはできません。しかし、キリストが与えてくださる平和は、問題の「中で」も失われないのです。
では、私たちは具体的に、どうすればこの平和に向かって歩めるのでしょうか? まず第一に、祈りの時間を大切にすることです。フィリピの信徒への手紙で聖パウロはこう勧めています。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えを守るでしょう」(フィリピ4:6-7)。忙しさの中でも、静かに神に心を向ける時間を持つことは、魂にとっての「深呼吸」です。特別な言葉が必要ではありません。心のうちを神に開き、「主よ、ここにおります」と告げるだけでも、すでに平和への扉は開かれています。
第二に、神の摂理への信頼を学ぶことです。私たちはあらゆることを「自分の手でコントロール」しようとする傾向があります。しかしマタイによる福音の中で、イエスは私たちに問いかけます。「空の鳥を見なさい…野の花を見なさい…あなたがたの天の父は、それらを養ってくださる。まして、あなたがたにしてくださらないはずがあろうか」(マタイ6:26-30)。神は今日という一日にも、私たちに必要な恵みを備えてくださっています。すべてを思い煩うのではなく、神の御手の中に明日を委ねることが、心の平和につながるのです。「なるようになる」ではなく、「神のようになる」ことを願うのです。
第三に、隣人への愛と赦しを実践することも心の平和には欠かせません。心の中に誰かへの怒り、嫉妬、恨みを抱えたままでは、いくら外側が静かでも魂の奥深くはざわついています。マルコ福音11章25節では、「立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい」と勧めています。私たちは皆、不完全で、誰かを傷つけ、また傷つけられてきました。けれども、赦しの恵みこそが、心に真の解放と安らぎをもたらすのです。小さな一歩でもよいのです。祈りの中でその相手を神に委ね、「主よ、私は赦したいです」と願うところから始めてみましょう。
そして最後に、感謝の心を育むことも、魂の静けさを深める秘訣です。「ありがたい」という言葉には「有り+難い」、つまり当たり前でない恵みに気づく視点があります。日常の中で、「ありがとう」と言える出来事を一つでも見つけることは、神の祝福を数えることと同じです。朝の陽射し、小鳥の声、誰かの笑顔、温かい食事——それらすべてが、神からのささやかな贈り物です。「小さな幸せを大きく喜べる人」は、いつしか「深い平和」を身にまとうようになります。
このように、心の平和とは、嵐が去った後に訪れるものではありません。それは、嵐の中にあっても神が共にいてくださるという確信に立つ時に生まれるものです。祈りによって、信頼によって、赦しと感謝によって、そしてキリストにより頼むことによって、私たちは「この世にはない平和」を見いだすことができます。私たちの心がどんな状態であっても、神はそこに平和の種を蒔こうと待っておられます。今日から、その種に水を注ぎ、光を当ててみませんか?きっと、私たちの魂にも静かで豊かな平和が宿る日が来るでしょう。