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今月のメッセージ2025

​毎月の教会新聞に掲載している、司牧チームによる「巻頭言」の2025年のバックナンバーです。

2025年7月号 掲載

天国の鍵(忍耐の実) 

ユン·サンホ(ヨハネ)神父

ある日家族に小説を書くと断固宣言した、医師であるA,Jクローニンは、屋根裏部屋の父親が文を書いた部屋を、自分の小説作業のための場所に決め、小説を書くために準備しました。しかし霊感は浮かばず、原稿用紙はずっと白紙でほこりが積もり、3ヶ月のあいだ数百回も「これは無謀な試みだ」と思いました。

医者がメスではなくペンで文を書くのは無理だったと、苦悩の日々を過ごさなければなりませんでした。「ああ、真に愚かな時間だった。私はなぜ小説を書くと宣言したのか!」と悩みました。この時、学校の先生の忠告が思い浮かびました。「頭で止まっていては何もならない。 頭から出たものを文に移しなさい。」 彼は浮かび上がった考えを書き進めました。小説の半ばで、彼は自分の文章をもう一度読み返してみました。構成や文章が支離滅裂でした。「ああ!こんなに多くの時間をかけた日々は支離滅裂だったのか? 夏の夜の夢のように私の小説はむなしく終わってしまうのか? 誰もこの本を読まないだろう。」

彼は怒って原稿をゴミ箱に投げ捨てました。それから頭を冷やそうと散歩に出かけ、夕暮れの野原を歩きました。年老いた農夫がくわで畑の畝を耕しながら彼をちらりと見て尋ねました。小説を頑張って書いていますか?

彼は首を横に振りながら「あきらめました。私には小説家の才能がないようです。」と言いました。農夫はタバコを取り出して吸いながら言いました。「私の父の夢は牧場を持つということです。 父は溝を一生かかって掘って、牧場を作ろうとしましたし、私も牧場を作ろうと今も諦めずに溝を掘っています。いつかは私か私の息子が牧場を作れると信じているからです。」

クローニンは突然思いついて家に駆けつけました。 それからゴミ箱に捨てた原稿を取り出してストーブの火で乾かしました。

 もう少し遅かったら、その半分の原稿は使えなかったのです。こうして作り出して完成された小説があの有名な A、J、クローニンの天国の鍵です。希望と忍耐、そして誠実さと目標をもつ人生、それが私たちの人生を豊かにします。西洋の格言に「我慢するのはつらいが、その実は甘い」また「天は待つことができる者にすべてを与える」という言葉があります。

 農業を営む農夫が、芸術品を創作した芸術家が、機械を発明する科学者が成し遂げたすべての人類の財産は、すなわち忍耐の人生から生まれたものでしょう。

聖書にも苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む(ローマ5・3)と書かれています。信仰生活も、必ず忍耐と誠実さを元にしなければならないでしょう。神の愛をもって熱い夏に耐えれば、秋の豊かな喜びと幸せが訪れるでしょう。

2025年6月号 掲載

​アべムス パパム 

しろきたブロックモデラトール   長崎 壮神父

教皇フランシスコが帰天され、私たちは教皇レオ14世を新教皇としてお迎えすることになりました。

さきの教皇フランシスコについての私の印象は、神学的な難しいことばを使わずに“いのち”の尊厳について語られた教皇だったということです。

教皇名が示す聖フランシスコのように、被造物であるこの地上のすべての“いのち”が互いに支え合っているのだということを、私たちの心にあらためて刻み込んでくださったことは私たちへの霊的遺産です。

 

 そして、もうひとつ教皇フランシスコが果たした大きな役割は、私たちの間からあらゆる壁をすべて取り除き、ひとりひとりが生きる喜びを感じられる世界をつくろうとしたことです。あらゆるマイノリティに共感を示すよう、利己主義の壁を壊して移民・移住者を受け入れる寛大な心を持つよう、世界に訴えました。

これまで聖職者中心主義になりがちな教会内にあっては、女性の持っている力に信頼と期待を寄せ、女性を教会内の重要なポストに登用し、ともに歩む教会、シノドス的な教会への舵取りもされるなど、これまでの因習を見直し、様々な改革をされましたが、それについては保守的な考えを持つ聖職者からは批判を受けました。しかし「新しいぶどう酒は新しい革袋に」(マタイ9章14~17)と主イエス・キリストが語られたように、教会は旅する教会であり、刷新を必要とします。その意味でも批判を恐れず、聖霊に導かれた改革をされたと思います。

 教皇フランシスコは、深刻な病気の中で四旬節・聖週間の大部分を病院で過ごされ、復活祭の翌日に帰天されましたが、それはまるでキリストの受難・死・復活という“過越秘儀”に完全に一致したことを感じさせました。

在位期間中、教皇フランシスコが批判を恐れず、命がけで伝えようとしたのは“神のいつくしみ”に他ならなかったと思います。私たちは教皇フランシスコが始めた“希望の巡礼者”の聖年の歩みのなかで、もっともっと神のいつくしみを感じましょう。

 

 さて、教皇選挙の結果、新教皇に選出されたのは、ロバート・プレボスト枢機卿で、レオ14世を名乗りました。

マスコミの予想に反した新教皇が選出されたことに関しては、教会の中に聖霊が働き、教会は聖霊によって生かされていることとして受け止めています。教皇選出の直前、復活節の第三主日に読まれた福音の中に、イエスがペトロに「私の羊を牧しなさい…あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」(ヨハネ21:18)と仰る箇所がありましたが、初代教皇のペトロに言われたこの“みことば”を世界の誰よりも深い心で受け止められたのは新教皇レオ14世だったと思います。

「よい羊飼いは羊のために命をすてる」(ヨハネ10:11)ともイエスは仰いましたが、教皇になるということはどんなに小さな自我においても死ぬ覚悟が必要になります。新教皇も選出されるにあたり、随分と葛藤があったことでしょう。世界中のすべての人を父の心で愛し、祈ること、教皇職の使命は人間の力では全うできない大変なものです。

この重責を任された新教皇レオ十四世のため、私たちも一層心を込めて祈りましょう。

2025年5月号 掲載

​希望の巡礼者

 フェリックス・マルティネス神父

2008年8月。関目教会と今市教会の3人の若者と一緒にカミノ・デ・サンティアゴの巡礼をしました。17年近く過ぎていますが、いまだに素晴らしい体験としての思い出になっています。私の生まれ故郷の近くを出発点にし、2週間に400キロぐらい歩きました。目的地のサンティアゴ・デ・コンポステラに着いた時、喜びのあまり感動の涙がこぼれたことは忘れられません。

なぜこの話をするかと言いますと、今年全世界のカトリック教会では聖年に定められ、「希望の巡礼者」というモットーになっているからです。私たちが、希望をもってともに歩む巡礼者であること、信仰生活の原点であることを心の中で改めるきっかけになればと願っています。

サンティアゴの巡礼を思い出すと、毎日、日が昇る少し前から暑くて歩けなくなる午後の2時ぐらいまで、ひたすら歩いていたことが頭に浮かびます。しかも、ほとんど沈黙のうちに。2週目ぐらいになると、無意識的にその沈黙はある種の祈りに変わっていたように思います。出会うほかの巡礼者や地元の人々に、必ず挨拶と笑顔を交わしていました。暑くてたまらない日も、雨の日も、歩きにくい山道の日も、また靴との摩擦のため足に靴ずれができた日も、身体がしんどくなる時も…いろいろな困難を乗り越えないといけなかったのですが、通る道の周りの自然や様々の風景に巡り合えたのも、どれも神様の贈り物に見えていました。

信仰を大事にしながらの、社会のただなかでの日常生活は簡単ではありません。信仰と関係なく、様々な問題を抱えたり、苦しみを感じながら頑張らないといけないこともあったりします。しかし、十字架の上で示された神の愛から私たちを引き離すことはありません。希望は、悲しみや苦しみをなくすことではありません。その中に神の愛を見出す恵みが希望なのです。

サンティアゴはとても有名な巡礼地になったので、様々な国から来た巡礼者に出会うことができます。全く話が通じない人にも出会いましたが、全く知らない人でもお互いに気遣いあって、助け合って、励まし合っていた温かい雰囲気が強かったです。

キリスト者は決して孤独な旅人ではありません。自分自身から出て、神と兄弟姉妹に向き合って、教会の人や、すべての人とともに、困っている人とともに、肩を並べて同じ方向に向かっています。

サンティアゴの道で通るほとんどの町や小さな村でも、巡礼者専門のシンプルな宿があります。中には有料の宿もありますが、志だけでいいよと言われるところの方が多いのです。このような巡礼者専門の宿には一つのルールがあります。泊まれるのは一泊だけということ。土砂降りの雨であっても、熱が出ていても、疲れていても、次の日は出て行かなければなりません。巡礼者は何があっても先へと道を進めなければなりません。止まってはいけません。

私たち「希望の巡礼者」は長い旅路を歩いていますが、自由へのこの険しい道のりを神とともに歩みます。どのような状況にあっても、信仰が弱っていても、神の愛に励まされ、恐れずに、辛抱強く歩み続けたいものです。

2025年4月号 掲載

​「行いを伴わない信仰は死んだもの」

 タラン・スン・ニュ・イ神父

今回の巻頭言では、「行いを伴わない信仰は死んだもの」という聖ヤコブの教えに基づき、カトリック信仰の実践のあり方を探って、特に現代の日本社会において、いかにして信仰を生きたものとし、福音の証し人となるべきかを考察したいと思います。

聖ヤコブの手紙は、初期キリスト教共同体に向けて書かれたもので、特に信仰と行いの関係について強調しています。聖ヤコブは、「神を信じる」という信仰だけでは不十分であり、それが具体的な行動に結びつかなければ、真の意味で生きた信仰とは言えないと主張しました。聖ヤコブはさらに次のように述べています。「もし兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです」(ヤコブ 2:15-17)。つまり、口先だけの信仰ではなく、実際に人々を助ける行動が伴ってこそ、本当の信仰であると聖ヤコブは強く主張しているのです。

カトリック教会では、「信仰と行い」の関係について長い議論が続いてきました。プロテスタントの伝統では、「信仰のみ」による救い(sola fide)が強調されることが多いのに対し、カトリック教会は「信仰と行いは不可分である」と教えています。公会議の教え(特にトリエント公会議)においても、私たちが神の恵みによって信仰を受けることは確かですが、それを生きるには行いが不可欠であるとされています。信仰とは、単なる個人の内面の問題ではなく、私たちの生き方全体に関わるものなのです。

現代の日本社会において、信仰を実践する上での課題は以下のようなものがあると思います。まず、信仰を公に表明することへのためらい:日本では宗教が個人的なものとされる傾向があり、家族内であっても信仰を積極的に語ることが難しい場合があります。次に、実生活の中での信仰の位置付け: 忙しい生活の中で、教会の活動や祈りの時間を確保することが難しい。そして、社会貢献と信仰の接点:信仰に基づく行いをどのように社会の中で実践するかが問われる。これらの課題を乗り越えるためには、カトリック信者がどのように信仰を生きるべきかを再考する必要があります。

ですから、カトリック信者に求められる信仰の実践は、まず、 祈りと行動の調和:「行いを伴う信仰」は、単に社会的な活動を意味するものではありません。それは、まず神との関係を深めることから始まります。祈りと行動は決して対立するものではなく、むしろ相互に補完し合うものです。 祈りの中で神の御心を知り、それを行動に移すことが重要です。そして、隣人愛の実践:「行いを伴う信仰」を生きるためには、次のような具体的な実践が求められるのです。家族や職場の人々に対して、誠実に接し、愛をもって行動すること。ボランティア活動や貧しい人々への支援を通して、キリストの愛を証しすること。友人や同僚との会話の中で、自然な形でキリストの教えを伝えることです。

聖ヤコブの言葉「行いを伴わない信仰は死んだもの」は、カトリック信者にとって非常に重要なメッセージです。信仰は単なる頭の中の理念ではなく、実際の生活の中で表れるものでなければなりません。日本のカトリック信者は少数派ですが、その分、一人ひとりの生き方が大きな影響を持ちます。私たちが真にキリストの愛を生きるならば、それは周囲の人々にも伝わっていくでしょう。信仰を行動に移し、社会の中で「光」となりましょう。神が私たちに与えてくださる恵みに感謝しながら、日々の生活の中でキリストの証人として歩んでいきましょう。

2025年3月号 掲載

​四旬節とは?

 シスネロス・ハイメ神父

四旬節は、灰の水曜日から主の最後の晩餐のミサの始めまでの期間です。毎年四旬節には守るべき精神があります。断食、祈り、施しの三つの善行です。これらの前行を行うに当たって、尊い山に登るイメージを抱くことは相応しいことです。

主の受難、十字架を背負うイエスの姿を黙想する伝統的な祈りがあります。ご存じの通り、十字架の道行きと呼ばれる祈りです。イエスが運んだ十字架は大変重い物でした。その重さの中身は人びとの罪の重さだったのでしょう。

さて、信者として私たちがするべき心の準備は何でしょうか。主の勝利である復活に与かるために、救いの業に参加をさせてください。これは、大きな喜びに伴う全人類の救いの神秘でもあります。人間は罪に落ちたままではなく、罪の執着から解放されるので、回心の過程を目指して断食をし、祈りをし、施しをする約束をします。

灰の水曜日によって始まる四旬節には断食を守る義務があります。復活徹夜祭に洗礼志願者は洗礼を受けます。洗礼を既に受けた信者は受洗したことを記念して洗礼の約束を更新します。キリストとの深い絆があるので、聖性を目指す生き方をし、霊性に生きるために愛する心を育て、その勤めに忠実な生き方を目標と定めます。イエスの愛、イエスの慈しみを経験する中で教会の信徒共同体を育てるために、愛し合い祈り合うことは欠かせないことです。 

今年の復活祭は、次の通り遅い方です。灰の水曜日は3月5日、受難の主日は4月13日、復活祭は4月20日です。

ここで、最も古い信心の祈りである十字架の道行きの第10留を祈ります。

 

<主イエスよ、あなたは死の間際にすべてを奪われ、人間らしい扱いも受けず、 屠り場に引かれる小羊のように、毛を刈る者の前に物を言わない羊のように、口を開かず、ただじっと耐え忍ばれました。主よ、あなたの受けた傷によってわたしたちを癒して下さい。>

2025年2月号 掲載

​恵みの今日

 ユン・サンホ神父

私たちの日常の中で私に与えられた最も大切なものは何だろうか、しばらく目を閉じて考えてみます。過ぎ去った昨日の後悔とまだ与えられていない明日は、私にとって何の意味があるでしょうか?私たちが知っている世界的な文学者トルストイは“私の一番大切な時間はまさに今で、今私に一番大切な人がいるなら今私が会っている人だ。”と言っています。

真の時間と喜び、幸せはただ今日を生きることです。今この与えられた時間を感謝しながら生き、誠実に与えられた仕事を果たすことです。私たちが生きている中で、幸せではなく悲しいことは、昨日の残滓(ざんし)か明日への心配から来ることです。今日を忠実に生きてこそ明日という贈り物が与えられます。一日は開けてみなかった贈り物だそうです。一日一日が恵みと奇跡の時間です。朝、目を覚まして生きていることを感じ、喜びと祈りと感謝の気持ちで食べて飲んで仕事ができることを意識して生きることこそ贈り物です。

 神様が私たちにくださった今日一日も、この時間と世の中の美しさをお互いに隣人と分かち合うことができ、共有しながら生きることです。そして夜になって寝床(ねどこ)に入る前に、与えられた一日のすべてのことを神様に感謝しながら寝床に入ることです。今日のすべての一日は神様が収穫(しゅうかく)され、すべての明日はすべての主人である方が持っておられます。

その日その日に与えられた人生の時間は私たちに与えられた大切なものなので、そこで真の喜びと幸せを生き、また望まない痛みと苦痛をも共に受け入れて生きていくのです。やがてやってくる春と夏、秋と冬を私たちは約束できません。私たちは弱く、明日を予測できない不確実な存在だからです。 そのため、一日一日の最善の人生はとても大切な人生です。与えられた時間を感謝し、神様に信頼して一日一日を生きていく人生は、喜びの実を結びます。

 今日一日、私の日常生活で与えられた実を結ぶことができれば、過ぎ去ったことやまだ来ないことを心配して生きる必要はないでしょう。まだ来ない時間と与えられない人生を心配し、不安に思うということは、今日を誠実で忠実に生きることができなかったという証拠と言えるでしょう。今日今を大切にし、御言葉を記憶し、全てを委ねる心で、主と共に常に喜び絶えず祈りどんなことにおいても感謝することです。最善を尽くして、今この時間を生きて行きましょう。

 

イエス様はこのようにおっしゃいました。

「だから明日のことは心配するな。明日の心配を明日に任せなさい。 一日の苦しみはその日の経験だけで十分だ」(マタイ6・43)

​​

2025年1月号 掲載

~聖年の始まりにあたって~

希望の巡礼者となる皆さんへ 

しろきたブロックモデラトール

 長崎 壮神父

しろきたブロックの皆さん、主の御降誕と新年の喜びを申し上げます。

四週間の待降節を通して迎えた幼子イエスの降誕祭を皆さんはどのように迎えられたでしょうか。十分な祈りのうちに迎えた人もいれば、日常の心配事や煩わしさの中で落ち着かない気持ちで迎えた人も多いかと思います。ただ、間違いなく言えることは、待降節の精神“adventus”(主がやってこられる)が表すように、私たちの心の準備のいかんに関わらず、幼子イエスは皆さんの心に等しく来られたのです。この降誕節の間、聖家族、羊飼いや東方の三人の博士の輪の中にはいってみましょう。

幼子イエスに愛のこもった言葉をかけ、父なる神の御計画の協力者である御母聖マリアとヨセフに自分のことばで賛辞を捧げましょう。素朴で清い心の羊飼いや、真理を探す謙虚な東方の博士から皆さんはどのような話が聞けるでしょうか?

さて、この喜びの時にあって私たちにはもうひとつのよい知らせがあります。ローマで主の御降誕を記念する日に25年ごとに開かれる通常聖年が始まったことです。大阪高松教区でも12月29日に聖年の開始のミサが開かれます。聖年を通して教会が私たちに伝えようとしているその目的は、私たちが赦しと和解を通して神のいつくしみを感じることです。

今回の聖年のテーマは、「希望の巡礼者」です。教皇フランシスコは、聖年の大勅書の中で、「先行きが見えない今の時代にあって、希望のうちに忍耐することの大切さ」を訴えています。この聖年の始まりにおいて、私は修練期に修練長の司祭から薦められ、東方教会の『無名の巡礼者』を読んだことを懐かしく思い出します。この本はひとりのロシア正教信徒がロシア中を巡礼してその霊的な成長の記録を指導司祭が書き留めたものですが、私たちひとりひとりの人生の歩みも旅や巡礼そのものだということにあらためて気づかされます。

私たちが希望の巡礼者となるこの一年、私たちの巡礼の旅はどのようなものになるでしょうか。旅に出かけるにあたり、忘れてはならない持ち物は“希望”です。『無名の巡礼者』はひとり旅でしたが、「旅は道ずれ」と言われるように、道に迷ったり、足をくじくことがあった時のために、多くの人は同伴者を必要とすることでしょう。何よりも歩みながら主イエスにおける希望を語る相手がいることは旅を楽しくしてくれます。   

旅に出ることは、主の降誕における羊飼いや東方の三博士がそうであったように、人生の意味や真理を追い求める人の姿です。

私たちのこれから始まる霊的な巡礼の旅の途上で神様のいつくしみを豊かに受け取ることができますように。

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