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今月のメッセージ2025

​毎月の教会新聞に掲載している、司牧チームによる「巻頭言」の2025年のバックナンバーです。

2025年3月号 掲載

​四旬節とは?

 シスネロス・ハイメ神父

四旬節は、灰の水曜日から主の最後の晩餐のミサの始めまでの期間です。毎年四旬節には守るべき精神があります。断食、祈り、施しの三つの善行です。これらの前行を行うに当たって、尊い山に登るイメージを抱くことは相応しいことです。

主の受難、十字架を背負うイエスの姿を黙想する伝統的な祈りがあります。ご存じの通り、十字架の道行きと呼ばれる祈りです。イエスが運んだ十字架は大変重い物でした。その重さの中身は人びとの罪の重さだったのでしょう。

さて、信者として私たちがするべき心の準備は何でしょうか。主の勝利である復活に与かるために、救いの業に参加をさせてください。これは、大きな喜びに伴う全人類の救いの神秘でもあります。人間は罪に落ちたままではなく、罪の執着から解放されるので、回心の過程を目指して断食をし、祈りをし、施しをする約束をします。

灰の水曜日によって始まる四旬節には断食を守る義務があります。復活徹夜祭に洗礼志願者は洗礼を受けます。洗礼を既に受けた信者は受洗したことを記念して洗礼の約束を更新します。キリストとの深い絆があるので、聖性を目指す生き方をし、霊性に生きるために愛する心を育て、その勤めに忠実な生き方を目標と定めます。イエスの愛、イエスの慈しみを経験する中で教会の信徒共同体を育てるために、愛し合い祈り合うことは欠かせないことです。 

今年の復活祭は、次の通り遅い方です。灰の水曜日は3月5日、受難の主日は4月13日、復活祭は4月20日です。

ここで、最も古い信心の祈りである十字架の道行きの第10留を祈ります。

 

<主イエスよ、あなたは死の間際にすべてを奪われ、人間らしい扱いも受けず、 屠り場に引かれる小羊のように、毛を刈る者の前に物を言わない羊のように、口を開かず、ただじっと耐え忍ばれました。主よ、あなたの受けた傷によってわたしたちを癒して下さい。>

2025年2月号 掲載

​恵みの今日

 ユン・サンホ神父

私たちの日常の中で私に与えられた最も大切なものは何だろうか、しばらく目を閉じて考えてみます。過ぎ去った昨日の後悔とまだ与えられていない明日は、私にとって何の意味があるでしょうか?私たちが知っている世界的な文学者トルストイは“私の一番大切な時間はまさに今で、今私に一番大切な人がいるなら今私が会っている人だ。”と言っています。

真の時間と喜び、幸せはただ今日を生きることです。今この与えられた時間を感謝しながら生き、誠実に与えられた仕事を果たすことです。私たちが生きている中で、幸せではなく悲しいことは、昨日の残滓(ざんし)か明日への心配から来ることです。今日を忠実に生きてこそ明日という贈り物が与えられます。一日は開けてみなかった贈り物だそうです。一日一日が恵みと奇跡の時間です。朝、目を覚まして生きていることを感じ、喜びと祈りと感謝の気持ちで食べて飲んで仕事ができることを意識して生きることこそ贈り物です。

 神様が私たちにくださった今日一日も、この時間と世の中の美しさをお互いに隣人と分かち合うことができ、共有しながら生きることです。そして夜になって寝床(ねどこ)に入る前に、与えられた一日のすべてのことを神様に感謝しながら寝床に入ることです。今日のすべての一日は神様が収穫(しゅうかく)され、すべての明日はすべての主人である方が持っておられます。

その日その日に与えられた人生の時間は私たちに与えられた大切なものなので、そこで真の喜びと幸せを生き、また望まない痛みと苦痛をも共に受け入れて生きていくのです。やがてやってくる春と夏、秋と冬を私たちは約束できません。私たちは弱く、明日を予測できない不確実な存在だからです。 そのため、一日一日の最善の人生はとても大切な人生です。与えられた時間を感謝し、神様に信頼して一日一日を生きていく人生は、喜びの実を結びます。

 今日一日、私の日常生活で与えられた実を結ぶことができれば、過ぎ去ったことやまだ来ないことを心配して生きる必要はないでしょう。まだ来ない時間と与えられない人生を心配し、不安に思うということは、今日を誠実で忠実に生きることができなかったという証拠と言えるでしょう。今日今を大切にし、御言葉を記憶し、全てを委ねる心で、主と共に常に喜び絶えず祈りどんなことにおいても感謝することです。最善を尽くして、今この時間を生きて行きましょう。

 

イエス様はこのようにおっしゃいました。

「だから明日のことは心配するな。明日の心配を明日に任せなさい。 一日の苦しみはその日の経験だけで十分だ」(マタイ6・43)

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2025年1月号 掲載

~聖年の始まりにあたって~

希望の巡礼者となる皆さんへ 

しろきたブロックモデラトール

 長崎 壮神父

しろきたブロックの皆さん、主の御降誕と新年の喜びを申し上げます。

四週間の待降節を通して迎えた幼子イエスの降誕祭を皆さんはどのように迎えられたでしょうか。十分な祈りのうちに迎えた人もいれば、日常の心配事や煩わしさの中で落ち着かない気持ちで迎えた人も多いかと思います。ただ、間違いなく言えることは、待降節の精神“adventus”(主がやってこられる)が表すように、私たちの心の準備のいかんに関わらず、幼子イエスは皆さんの心に等しく来られたのです。この降誕節の間、聖家族、羊飼いや東方の三人の博士の輪の中にはいってみましょう。

幼子イエスに愛のこもった言葉をかけ、父なる神の御計画の協力者である御母聖マリアとヨセフに自分のことばで賛辞を捧げましょう。素朴で清い心の羊飼いや、真理を探す謙虚な東方の博士から皆さんはどのような話が聞けるでしょうか?

さて、この喜びの時にあって私たちにはもうひとつのよい知らせがあります。ローマで主の御降誕を記念する日に25年ごとに開かれる通常聖年が始まったことです。大阪高松教区でも12月29日に聖年の開始のミサが開かれます。聖年を通して教会が私たちに伝えようとしているその目的は、私たちが赦しと和解を通して神のいつくしみを感じることです。

今回の聖年のテーマは、「希望の巡礼者」です。教皇フランシスコは、聖年の大勅書の中で、「先行きが見えない今の時代にあって、希望のうちに忍耐することの大切さ」を訴えています。この聖年の始まりにおいて、私は修練期に修練長の司祭から薦められ、東方教会の『無名の巡礼者』を読んだことを懐かしく思い出します。この本はひとりのロシア正教信徒がロシア中を巡礼してその霊的な成長の記録を指導司祭が書き留めたものですが、私たちひとりひとりの人生の歩みも旅や巡礼そのものだということにあらためて気づかされます。

私たちが希望の巡礼者となるこの一年、私たちの巡礼の旅はどのようなものになるでしょうか。旅に出かけるにあたり、忘れてはならない持ち物は“希望”です。『無名の巡礼者』はひとり旅でしたが、「旅は道ずれ」と言われるように、道に迷ったり、足をくじくことがあった時のために、多くの人は同伴者を必要とすることでしょう。何よりも歩みながら主イエスにおける希望を語る相手がいることは旅を楽しくしてくれます。   

旅に出ることは、主の降誕における羊飼いや東方の三博士がそうであったように、人生の意味や真理を追い求める人の姿です。

私たちのこれから始まる霊的な巡礼の旅の途上で神様のいつくしみを豊かに受け取ることができますように。

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