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今月のメッセージ 2020

毎月の教会新聞に掲載している、司牧チームによる「巻頭言」の2020

年のバックナンバーです。

2020年12月号 掲載

『主の訪れを待ち望みながら 』

シスター高橋由美子

 気がつくと待降節が来ていました。昨今の豪雨による河川の氾濫や、気温の上昇、さらにコロナウイルスの蔓延で世界中が不安と恐怖に襲われました。いのちについて否が応でも考えさせられる一年間でしたが、このような緊張の時が訪れるとは、だれが予想したでしょうか。

 

 平日に、教会に来てお祈りする方によく出会います。「お元気ですか」と挨拶をしながら、「高齢者なので、コロナの感染が心配で、家族から教会に行くことを止められています。ミサにも参加できなくなりました。」「何もできないので一日中ロザリオやお祈りをしています。」「今日はご聖体の前で祈ることが出来ました。」と言葉を交しながら、日曜日のミサを大切にしていた方たちが、このような状態で大丈夫かしらと思うことがありました。私の所属する修道院も平均年齢80歳を越える超高齢者共同体で、外出をする機会も少なくなりました。そこでコロナウイルスの収束を願って、ロザリオ1環を、毎日共同で唱え、すべてのいのちが大切にされるように特別に祈っています。

 

 教会で共にミサに参加することが難しくなりましたが、伝統的に積み重ねてきた祈りはいつでもどんな時にも誰でも祈ることが出来ます。そして、魂の渇望や、神を求める心がつながり、連帯していることを感じる不思議な力を持っています。射祷、詩篇、ロザリオ、沈黙の祈りは教会の歴史の遺産で、わたしたちに委ねられている恵みではないでしょうか。

 教会の歴史は、神に背いた人間の歩みでした。しかし、それにもかかわらず、たえず回心を呼びかける神の愛と憐みでした。待降節は人間の罪の闇と、いつも人間を受け入れる神の愛の現れの季節です。また、待降節の前半は、終末におけるキリストの再臨に私たちの心の目を向けさせる、終末的色彩の濃いときでもあります。地球環境の立場から、これまでの物との関係、人との関係、神との関係を振り返りながら、キリストの誕生を待ち望み準備する期間として過ごしていきましょう。

2020年11月号 掲載

『本物のカトリック信者 』

竹延真治神父

 わたしの一番好きな女優は樹木希林さんだ。悠木千帆と呼ばれていたころからの彼女のファンで、亡くなった時は胸が張り裂けるほど悲しかった。今でも彼女の演技やコマーシャルの場面がたびたび瞼(まぶた)に浮かぶ。

 

 彼女が出る映画やドラマ、トークを見聞きしながら、ふと樹木希林さんはカトリック信者なのではないかと思うことがあった。ネットで調べてみたが、彼女は仏教、それも法華宗系の新興宗教に属しておられ、カトリックとは縁もゆかりもなかった。「ああ、残念だ!」とその時は思ったが、それでも、わたしの理想とするカトリック信者像は彼女なのだ。冷淡そうで深い愛があり、争いを好むかのように見えて実は平和主義者だというあたりがその理由だろうか。第一、自分に暴力をふるう夫の内田裕也がせっかく離婚届けを出してくれたのに、逆に裁判所に訴えて離婚の無効を宣言してもらうなんて超カトリック信者としか言いようがないではないか。樹木希林さん、カトリック信者呼ばわりしてごめんなさい。きっと、あなたは今頃天国(仏教だから“極楽”?)でくしゃみをされていることでしょう。

 

 この夏、わたしはもう一人「このひとはカトリック信者ではないだろうか?」と思える人のことを知った。門真市出身の元総理大臣幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)さんだ。戦後まもない幣原内閣の時に平和憲法が公布され、喜重郎さんは憲法九条を盛り込むことに全力を傾けられたということを今年の平和旬間の時のDVD鑑賞で知った。ちょうど今の大阪府運転免許試験場の裏側にあたる門真市一番町で生まれ、大阪城そばにあった大阪中学校(のちに京都に移転して第三高等学校)に入り英語を学び、東京帝国大学卒業後、外交官として、ワシントン会議・ロンドン軍縮会議などを経験、外務大臣に任命されてからも貫き通された「軍縮」、「中国の主権尊重」、「戦争阻止」を掲げる“幣原外交”は軍部からも国民からも非難され、「軟弱外交」というレッテルを貼られた。戦争末期はこの世から忘れ去られていたのに戦後すぐに国のトップに抜擢されると、「二度と戦争を起こさない」ということを自分の使命と考えた。なぜこの度の戦争が起こったかを調べる“戦争調査会”を発起、マッカーサーと直に話して憲法九条を新憲法に盛り込むことに成功した。

 

 イエス・キリストのみ旨を行う人のことをクリスチャンといい、カトリック教会ではカトリック信者とも呼んでいる。幣原喜重郎が何宗だったかは定かではないが、わたしの心の中では喜重郎さんは正真正銘のカトリック信者だ。

2020年10月号 掲載

『倍返し?恩返し? 』

フェリックス・マルチネス神父

 この頃、毎週欠かさず観ている番組は、日曜夜9時からの4チャンネルの「半沢直樹」という連続ドラマです。はまっているような気がします。新聞に出てくる視聴率表のトップで人気番組になっています。みなさんは観ていませんか。表に出てこない銀行の中での勢力争い、世の中の汚い側面が繰り広げられます。

 

 主人公の半沢が人の裏切りや不正を許さないとても賢い人で、相手は上司であろうが、偉い方であろうが、脅かされても、任された任務を最後まで果たす。一対一でも皆の前でも真実を容赦なく話します。とんでもありませんが、あそこまで自分にはできない憧れの人物に見えてくる。

 

 面と向かい、主人公を始め、お互い大きな声で怒鳴り合い、顔と顔の間に10センチもない距離で飛沫まで見えそうな場面は、ソシャルディスタンスを守りながらマスクをしないといけないコロナウイルス時代の私たちには、信じられない光景です。それもこのドラマの一つの魅力でしょうか。

 

 また、自分の利益と昇進しか考えないで、そのためにうそや不正を繰り返す心のない悪の社会の中で、半沢と協力してくれる数人だけが、会社のため、社会のため、人のために忠実に働く姿は実に魅力的。

どんな小さなことでも、誇りをもって成し遂げる。会社の金銭的な利益や評判を優先に小さな会社やお客様を犠牲にするのではなく、お客様を満足させ、社会の役に立つことこそ会社の利益である。イエスの教えを思い出させてくれる言葉や価値観がたくさん聞かされる番組です。現代風の侍映画のようです。

 

 しかし、どうしても抵抗を感じることばがあります。「やられたら、やり返す」。「倍返しだ!」。裏切られたり、汚い方法で何かをされたりすると半沢がよく言う言葉です。不正をただす意味ですが、その言い方がイエスの「七の七十倍までも許しなさい」とは正反対に聞こえるので、この考えだけは…賛成できないように思います。「恩返し」という言葉も半沢の口から聞こえるので安心しているところです。

2020年9月号 掲載

『宝と真珠のたとえ話 』

グエン・バン・ナン神父

 7月16日のクラレチアン会創立記念日は、私の司祭叙階一周年記念日でもありました。皆さんや友人からたくさんおめでとうと言っていただきました。先週は愛徳姉妹会のシスターから、うちの神父さんたち皆を誘って頂き、コミュニティーで、私のために御ミサを捧げ、大きなお祝いをして頂きました。本当に感動し、嬉しかったです。
「私は何者なのでしょう、皆さんはどうしてこれほどあふれる愛を注いでくださるのでしょう。」と自問しました。新型コロナウイルスのために、初ミサの予定がまだ続いているうちに、叙階1周年を迎えました。この一年をふりかえり黙想すると、皆さんを通して、神様が豊かな愛と恵みを私の上に注いでくださっていることに気づきます。
 日々愛し、祈ってくださる皆さんは私の宝であり真珠です。同じように、ご家族と隣人のために皆さんが分かち合い助け、犠牲を払い、愛し許すことができれば、皆さんも彼らの宝と真珠になります。現代社会では、たくさんの人たちが私のように、関心、分かち合い、助けあいを必要としています。マザーテレサが教えてくださっているように、この世界は食べ物に対する飢餓よりも、愛や感謝に対する飢餓の方が大きいのです。
 実は、皆さんご存知のように、今、ベトナムから日本にきている実習生は、仕事の契約が終わっても、コロナウイルスのため国に帰ることができません。帰国を待つ間、食事にとても困ったようで、手紙で門真教会に助けをもとめました。これを聞いて、多くの方々が助けてくださいました。皆さんは彼らに慰めと救いを贈ったのです。
 しかし、このような行いのためには、私たちは畑に宝を見つけた人や商人のように、自分の持ち物をすっかり売り払わなければなりません。愛し分かち合うためには、私たちは自身を捨て、たくさんの犠牲を払う必要があります。今、新型コロナウイルスの感染者がまだ増え続けているうえに、大雨が降り続いています。困っている方はたくさんいらっしゃいます。分かち合い助けあうためには、自分を犠牲にする必要があるのです。
 だから、ソロモンのように、神様に求めましょう。自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、自己中心的な考えに打ち勝ち、忍耐するために力を求め、感謝と愛のふさわしい表し方ができるように願い、また訴えを正しく聞き分ける知恵を求めましょう。そうすれば、神様は私たちの行いを喜ばれます。
 最後になりますが、私の今日があるのは皆さんのおかげです。心から感謝の気持ちでいっぱいです。私が神様に忠実に、果たすべき使命を全うできるかどうかは皆さんの愛とお祈りにかかっています。
どうぞ互いに愛し許し合い、分かち合い助け合い、祈り合い、忍耐し合いましょう。アーメン。

2020年8月号 掲載

『 見えない人の目を開く 』

シスター 高橋由美子

 コロナウイルスの自粛期間中に、司牧者として取り組んだことを分かち合う機会がありました。聖書と典礼や教会週報を送り、手紙や電話で近況を伺った。サバチカルをもらったような気分になった等々。わたしも同じように、長い間音信のない方に20通ぐらいの手紙を書きました。衣類や部屋の断捨離、針をもってチクチクと縫いものなど、感染拡大の緊張の中にも幸せな時間を過ごしました。

 

 最近、労働力不足から問題になっていますが、コンビニは年中無休、24時間営業、デパートやスーパーも長時間営業しています。それは経済が成長し、所得が増え豊かな生活をするための現代社会の欲望を拡大するものでした。自粛生活はこの欲望にストップをかけましたが、これから先この状態はどの程度続くのでしょうか。

 

 律法には「安息日を心に留め、これを聖別せよ(出エ20:8)」とありますが、イエスは安息日にしてはならないことをして、ファリサイ派の人々の非難を受けました。病人を癒されたこと、特にイエスは見えない人の目を開くと宣言されました。主はあなたの心の目を開いてくださると約束されたのです。生活のサイクルが変わったことで、「仕事や世間のことばかりに囚われ、見つめなければならないことを見つめていたのだろうか。環境、環境と言いながら、自然と共生する道をライフスタイルの中に組み込んできたのだろうか。今まで見つめなければないものは何だったのだろうか。」と問いかけられていることに気付きます。

 

 安息日はただ休むためだけではなく、「主の安息日」なので神の言葉を聴き、それを実行する日です。コロナ禍の中で身体的距離の確保、マスク着用、手洗いなどの新しい生活様式は、感染しない感染させないという他者に対する思いやりの心です。感染からの危機を乗り越えるためには、互いの安否を気遣い、声を掛け合うことではないでしょうか。この機会に見近な人々との関わりを大切にして、心の目を開くことができますように。

2020年7月号 掲載

『 コロナ ミサ考(こう) 』

竹延 真治神父

 わたしはミサにちっとも快感を覚えない。信徒としてミサに参加していた時も、司祭になってミサを司式するようになってからも、ミサそのものは全然楽しくない。だから平日のミサであれ、日曜日のミサであれ、「さあ行くぞ、エイっ!」と自分に掛け声をかけ、気合を入れて香部屋に向かい、祭服に着替える。

 20代の初め、アメリカの農場で農業実習生として働いたことがある。コヨーテが鳴くミズーリ州の『大草原の小さな家』のような農場に、ボスと高校生の息子の三人で暮らした。何の刺激もなく、朝から晩まで豚の世話に明け暮れる毎日だった。一カ月に一度も休みをくれないボスに腹を立てたわたしは作戦を練った。ボスがカトリック信者だと知ったわたしは、「自分もカトリックの信者だからミサに行かせてくれ!」と頼み込んだのだ。実は、幼児洗礼を受けて、中学1年生までは日曜日にはミサに通っていたのだが、その後は教会に行かなくなり、アメリカに渡る直前はもう10年以上もミサから遠ざかっていた。そんなことはどうでもよい。とにかく街に出たくてたまらなかった。作戦成功!ボスが連れて行ってくれたのは、車で一時間ほど走ったところにある大学町のカトリック教会だ。土曜日夜のミサは、日本とは違い若者でいっぱいだった。わたしは若いお嬢さんのそばに座り、まずは香水の匂いに酔いしれた。ミサ中は神父さんなんかには目もくれず、聖堂をきょろきょろ見回し、来ている女子大生たちに目をやった。平和の挨拶の時に隣のお嬢さんと握手した時のうれしさといったら、言葉には言い尽くせない。数回、同じ手を使ってその教会のミサに連れて行ってもらったが、その夏にアメリカの中西部を襲った記録的な熱波で農場の作物は全滅し、豚もたくさん死に、農場を首になった。はっきり言えるのは、あの時わたしが味わった快感はミサそのものから来るのではなく、異性がもたらしてくれた快感に違いないということだ。新型コロナウイルス感染症対策でここしばらく、ミサは再開できても聖歌を歌うことができない。「そんなミサがつまらない。」という声を聞く。わたしは、「あなたの快感の源は本当にミサから来るものですか?」と問いたくなる。聖歌という音楽が快感の源になっているのではないですか?説教という講話が、祭壇前のお花という装飾があなたをミサに向かわせているのではないですか?それらのアクセサリー(付属品)を素敵なものにすることは意味があることだと思う。しかし、ミサに行く本来の目的は、アッシジのフランシスコが弟子たちに語ったように、「わたしはイエスさまに会いにミサに行く。他のどこにも行きたくない。」ということに尽きると思う。

 イエスさまは「これをわたしの記念として行いなさい。」と最後の晩さんの席で弟子たちに言い、ミサを制定されたが、弟子たちに「ミサを好きになりなさい。」とは言わなかった。ミサが好きであろうがなかろうが、言い換えれば、ミサに快感を覚えようが覚えまいが、淡々とそして黙々とミサをささげ続けるという態度がカトリック的なのだ、とわたしは思う。同じように、イエスさまは「人を好きになりなさい。」とは一度も言わなかった。彼がわたしたちに教えたのは「人を愛しなさい(大切にしなさい)。」ということだ。好きでもないミサを大切にすることは、好きでもない人を愛することにもつながるのではないかと思う。カトリック信者として、楽しくても、つまらなくても、ミサを大切にしたい。

2020年6月号 掲載

『 ともに歩めば大丈夫です 

福岡教区 ヨゼフ・アベイヤ 司教 

 2015年に、24年ぶりにローマから日本に帰って来ました。日本を離れていた期間が長かったので、ことばをはじめ様々な面で、再出発をしなければなりませんでした。何カ月間の調整が必要でした。 
 それが終わると、大阪教区のしろきたブロックの宣教司牧を依頼されました。昌川神父様、フリオ神父様、シスター高橋と一緒に一年間、今市、門真、大東の三教会の皆様と共に歩ませていただきました。 
 信徒の皆さんからアンケートを取って、その結果を踏まえて優先課題を識別し、新たな宣教司牧企画に手を付けようとした矢先に、玉造教会への異動を命じられました。それから一年半後、大阪教区補佐司教に任命され、酒井司教様と共に、前田大司教様を支えながら教区全体の宣教司牧に奉仕するようになりました。 
 そして、今度は福岡教区の司教に任命されたのです。年を取るにつれて、このように続く新しいチャレンジに応えるのはしんどいものですが、おかげさまで、今まで健康に恵まれ、皆さんに支えられて歩んで来ることが出来ました。 
 聖週間の火曜日に在日ヴァチカン大使から電話をいただいたときには、びっくりしました。もしかすると、ローマから来た任命書の名前を、大使が読み間違ったのではないかとも思いました。しかし、そうではなく、任命されたのはわたしでした。教皇様から来る任命ですし、きっと丁寧な識別のプロセスの結果だろうと信じて、引き受けました。 
派遣されるところに出向いて行くのは宣教師の生き方の基本だと思ってきた者ですから、素直に任命を引き受けることにしました。わたしたちの修道会の創立者を思い出しました。聖アントニオ・マリア・クラレットは、何回も思いがけない任命を受け入れなければならなかったのです。 
 今は、様々な人々との関わりを通して与えられたものを、福岡教区の司祭、修道者、信徒に分かち合うときです。そして、イエスの呼びかけに応えて、福音をすべての人々に宣べ伝えるときです。 
 福岡教区の兄弟姉妹に送った挨拶の中で、こういう望みを伝えました。「少しずつ知り合っていく中でわたしたちは、共にいることを喜び、教会として大事にして行きたいことを識別し、お互いに支え合いながら与えられた使命を果たして行きましょう。わたしの心からの望みはこれです」。 
 どうぞ、わたしのためにお祈りください。 

2020年5月号 掲載

『人を思う心』

フェリックス・マルティネス神父

 新聞を読んでもテレビを見ても、新型コロナウイルスの事ばかりのこの頃ですが、しろきたブロックの皆さんはお元気でしょうか。社会では外に出ないようにと要請され、教会では公開ミサや諸活動が禁止となったことによって、皆さんが教会に来ることがすっかりなくなりましたね。教会の中がガランとしていてとても寂しいです。

私たち、神父3人と一人の神学生は毎日ミサを捧げ、聖週間の典礼も行いました。必ず、参加できない皆さんのことを心にとめて“代わりに”という気持ちでお祈りをしています。それでも味気ないミサが続いています。

 「疲れている」から、「忙しい」からと言って普段は簡単に日曜日のミサをさぼりがちな私たちは、上から「行ってはいけない」と言われると、行きたくなるのではありませんか。教会に来られない分、お家でお祈りしていますか。少なくとも日曜日は、聖書を読んでから祈りの時間をつくってくださいね。下手な説教を聞くより心に恵みがあるかもしれません。また、コロナに感染した人やその家族、医療に携わる人々のためにも祈りましょう。

 スペインの大変な状態のことがテレビに出るので、「ご家族はいかがですか?」と心配して聞いてくださる人もたくさんいて、その気持ちは力になっています。実際今のところ、兄の娘一人だけ感染しましたが、入院せず既に回復したそうですので、私の家族は大丈夫です。

 しかし、信仰は、教会に行くか行かないかで分かるものではありません。マザー・テレサが毎日2回聖体礼拝をするように勧めていました。一回はミサにあずかったり、一人で教会の中で静かに祈ったりするとき。もう一つは、外に出て一人ひとりの人の中に神を見出すとき。特に苦しんでいる人の中で、ともに苦しむキリストを見出すとき。

 教会に行ってミサにあずかれない今、私たちの人を見る目が試される時かもしれません。内外のメディアは、外出を控えないといけなくて、狭い家の中で一日中家族と過ごさないといけないので、家庭内暴力や離婚が増えていると伝えています。

 日本では、まだ外出は許されていますが、慣れない生活を強いられています。普段なんとなくうまくいっていた様々な形の人間関係が難しくなっている、と感じる人は多いと思います。こんな時にこそ、信仰の力が支えとなるチャンスです。

 利害関係のメガネではなく、信仰のまなざしで人を見ることができればと思います。社会では、「自制心」とか、「団結」というけれども、私はそれに加えて、イエスから学んだ「隣人愛」や「人を思う心」を証する時だと思っています。

2020年4月号 掲載

『世の塩と光である』

グエン・バン・ナン神父

 皆さんよくご存知のように、新型肺炎のコロナウィルスが世界中に広がっています。治療薬はまだありません。誰もがコロナウイルスを警戒し、心配しています。ベトナムでは学校も神学校も全部閉まり、お休みになりました。この病気にかからない一番いい方法は、マスクをし、アルコール殺菌をすることです。
 このような時に、残念ながら自己中心的な人がいます。まわりの人のことを考えず、自分の家族のためだけに二年分のマスクとアルコール消毒液を買った人がいます。二年間で使い切るのでしょうか。結果的に、マスクと消毒液が店頭からなくなり、多くの人たちは買うことができません。もしキリスト者が彼らのようにふるまうならば、塩気がなくなった塩のようです。イエス様なら重い口調で言うでしょう。「外に投げ捨てられ、人々にふみ付けられるだけである」。こうならないためには、どうすれば良いでしょうか。
 今日の福音を思い巡らしながら、私は、あるベトナム人の奥さんと日本人の夫の話を思い出しました。2011年3月11日に、東北、特に福島で大地震と津波が起きた時、彼らは車のガソリンを入れに行きました。奥さんはタンクをいっぱいにしたかったのですが、ご主人は許しません。「半分だけ入れよう。」と言いました。奥さんは、「なぜですか、地震と津波で、ガソリンが不足するかもしれないのに。」と聞きました。ご主人は、「だからこそ半分だけ入れよう、ほかの必要な人たちのために残しておこう。」と答えました。彼がキリスト者かどうかは知りませんが、イエス様の教えを良く行った方だと思います。外国人は被災者たちが、並んで援助の品をもらっているのを見て、日本の方々を深く尊敬しました。
 今日のみ言葉で教会は私たちを招いています。彼らに倣い、周りの人たちのことを考えて、分かち合い、互いに手伝い合いましょう。特に苦しみの時です。そうすれば、私たち一人一人が世の光と塩になることができます。マザー・テレサが教えてくださっているように、「大きなことではなく、小さなことの中に大きな愛をこめましょう」。
家族や隣人と分かち合い、助け合うためには、時々困ったことや苦しいことがあるかもしれませんが、諦めないでいましょう。第一朗読で神様が約束してくださっているように、「飢えた人に私たちのパンをさき与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、はだかの人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。」(イザヤ 58:7−8)そうすれば、私たちは神様から豊かな祝福をうけるからです。また、世の光と塩となるのは私たちの選択ではなく、神様からの使命なのです。アーメン。

2020年3月号 掲載

『隠遁者に学ぶ』

ハイメ・シスネロス神父

 今年、四旬節の歩みが始まったばかりですが、皆様は信仰の姿を磨きたい思いを抱いていませんか。

 初代教会の信者たちの姿に触れるとき、新たな光を求めながら読書を勧めます。『信者たちは皆一つになって、すべての物を共有し、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心を持って一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。』(使徒言行録2・44-47)。

 信者の本来の姿への大きな照らしとなる言葉であり、目標が見えるなかで、世界に福音宣教をするよう励ましてくれます。

 福音書に出て来る主の招きはそれに一致しています。『キリストに学び、キリストに従う』ことこそ、神の国の訪れに相応しい生き方と言えるでしょう。しかしその狙いに近づくとき、世代ごとに置かれている状況が違い、それに相応しい行いが必要となります。そのため、聖霊に導かれて様々な霊性が生まれて来たと言えるのです。それはキリスト者らしさを目指した具体的な生き方の証拠です。例えば、東には聖バシリオとパコミオ、西には聖ベネティクトの霊性に基づいた修道生活と隠遁生活が始まりました。聖アントニオ修道院長は代表的な人物です。『修道院生活の父』と呼ばれるほどです。その記念日は1月17日です。

 さて、教会はローマ皇帝コンスタンティヌスによってキリスト教が歓迎され、平和な時代(西暦311年)を迎えました。それに伴い、グループや隠遁者が砂漠に退いて、特にエジプトとパレスチナでその運動が盛んになりました。

『荒れ野の教父』の書物の中から、『アッバアントニオ』の書物より、以下の言葉を選びました。

1.ある人がアッバアントニオに尋ねた。神に喜んでいただくためどうすれば良いでしょうか。アッバアントニオが答えた。『どこへ行っても、目の前に神の存在を置くようにする。また、何かをする時には、聖書からヒントを学ぶ。あなたの住居(所属場)を長く使用する。わたしがあなたに指示するこの3点を守るなら、救われる』。

 

2.『生きること・死ぬことが隣人によって決められる。兄弟を得れば、神を得るし、兄弟に躓きを与えれば、キリストに背く』。

 

3.ある人が『わたしのために祈って下さい』と願ったとき、アッバアントニオは『あなた自身が努力をして願うなら、神の憐れみが得られ、わたしの祈りが適えられます』と答えた。

2020年2月号 掲載

『人々に寄り添うイエス』

シスター 高橋由美子

数か月前から共同体の姉妹がデイサービスに通うようになりました。最初は行きたくないと嫌がっていましたが、1ヵ月位たつと喜んで行くようになりました。利用者をありのままに受け入れる施設のスタッフに癒されているようです。とてもわたしたちでは関わることができない、利用者中心の関係を築いていただいているように思います。

 今日はどんなことをしたのと聞くと、「若い青年が、毛糸の入った籠をもってきて編み物を教えてというのだが、なかなか上手にならない…」「ナイロンたわしはできあがったの。」また「さつまいもをつぶしてパイの皮で包んで焼いた。おいしかった。」などと話しています。それまでの元気な時は、手先が器用で料理、刺繍、編み物が得意でしたが、今ではガスや包丁などは危険で見守りが必要になってきました。しかし、忙しい忙しいと連発しながら生活している私たちは、見守りが必要になっている姉妹に寄り添いながら時間を過ごすことが難しい状況を作っているのです。

 教皇フランシスコ訪日のテーマは「すべてのいのちを守るため」でした。核兵器から解放された平和な社会をすべての人間が熱望し、核兵器禁止、核エネルギー使用の限界を強調されました。原発事故による被害者をはじめ、昨年の大規模災害で今も仮設生活を強いられている人がたくさんいます。このように弱い立場に置かれている人々をはじめ、すべての人間のいのちの尊厳が守られ、さらに地球環境をも大切にすることが求められているのです。

 わたしたちの周りの家庭や社会、この世界の中でいのちが大切にされていない「弱い部分」「貧しい部分」「飢え乾いている部分」は何でしょうか。超高齢化社会の中で、体や気持ちが自由にならなくて介助や見守りが必要になった人々も、その一人ではないでしょうか。「彼らのいのちが尊重されているか」と問いかけながら、わたしにとって「貧しさ」や「いのちに寄り添う」とはどのようなことか、身近な人々の中に見いだしていきたいと思います。

2020年1月号 掲載

『パパ・フランシスコのメッセージを心に刻んで』

竹延 真治 神父

わたしの左腕のゴム製の真っ赤なリストバンドは4年前のワールドユースデー・クラクフ大会の時にいただいた物。それ以来、シャワーを浴びるときも、床に就く時も文字通り肌身離さずこれを身につけている。この赤い腕輪に目をやるたびにクラクフ郊外の大平原での教皇ミサで100万人以上の青年達とViva Papa(ビバ パパ)!と叫び声をあげたことを思い出し、心が高揚するのだ。
その時、はるかかなたのステージにいらした教皇様は米粒か砂粒の大きさだったが、ともかく私自身はもうすでにポーランドでパパ様に会っているので、今回は長崎にも東京にも行かずに11月25日の大阪梅田教会でのパブリックビューイングに臨んだ。
当日は、教皇ミサに先立って、まず午後3時からパパ様の生い立ちと教皇になるまでの全貌を描いたDVD『教皇フランシスコの素顔』を観た。5回もの教皇選挙(コンクラーベ)で黒煙が上がった後、6回目の投票でようやくバチカンのシスティーナ礼拝堂の煙突から白煙が上がり、アルゼンチンのマリオ・ベルゴリオ枢機卿がベネディクト16世の後継者として選ばれる。教皇によって解散を命じられたこともあるイエズス会出身の初の教皇、初の南米大陸出身の教皇、75歳を過ぎた高齢での選出・・・しかも、フランシスコを教皇名として名乗るなど誰もが想像もしなかったプロフィールを持つ新教皇が生まれた。多くの識者がこのビデオの中で言うように、たしかに教皇は聖霊によって選ばれたのだとわたしも思った。
午後4時、いよいよ教皇ミサの中継が始まった。すごい熱狂。パパモービルに乗った教皇様が東京ドームを進む。5万の大観衆に手を振り、笑顔を注ぎ、差し出された赤ん坊に接吻するフランシスコ教皇の姿がアップで映し出される。4年前のクラクフでの興奮がわたしの中に再び燃え上がってきた。
しかし、彼は単なるカリスマ的ロックスターではなかった。「核兵器は使用するのはもちろん、持つことも倫理に反すること!」「いじめる者は、自らが怖れているかららいじめるのだ。みんなでいじめに対してNOと言わなければならない!」という被爆地や青年との対話集会で教皇が発したメッセージがもうすでにわたしの心の中に刻み込まれている。
「“自分のことで思い煩うな!”と福音が言うのは、わたしたちが主と同じ方向に目を向けるためなのです。」というパパ様の説教の中の言葉にわたしは魅せられた。
 新たに始まる2020年は、心に刻まれたパパ様の言葉を何度も反芻し続けようと思う。そうすることによってわたしの行動が変えられるような気がしてきた。教皇様との大阪梅田教会での再会はわたしの宝物だ。

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