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今月のメッセージ 2023

毎月の教会新聞に掲載している、司牧チームによる「巻頭言」の2023年のバックナンバーです。

2023年12月号 掲載

『私たちの時代の童話から ~お坊さんと救世軍~』

ユン・サン・ホ(ヨハネ)神父

 暗闇の中で、一人が蝋燭の火を灯し、また、一人が 続いて蝋燭を灯して世の中を照らし始めるとその周りは段々と明るくなり、やがて全世界が輝き明るくなります。無力感や暗いことを嘆くより、先ずは自分自身が一本の蝋燭となれば希望も湧いて来るでしょう。

 

 クリスマスが近づくと、人々はとても忙しくなります。信じる人であれ、信じない人であれ、街に流れるジングルベルのメロディーに、心は自然に浮かれてしまいます。デパートや街には人々が殺到し、ホワイトクリスマスを待ち焦がれます。

 

 そして、人々が多く集まるところには慈善募金のために救世軍の鐘の音が鳴り、恵まれない人々を助ける寄付のために学生たちもあちこちで小さな 募金をし、時には必要なものを販売したりもします。

 

 あるデパートの前で鐘を鳴らしながら慈善募金をしている救世軍の近くで、ある僧侶(お坊さん)が立ち 止まって場所を取り、木鐸(ぼくたく)を打ちながら念仏を唱えお辞儀をしました。救世軍の隣で「南阿弥陀仏観世音菩薩」とつぶやきながらお辞儀をする僧侶のその姿は、道行く人たちと救世軍にとってその姿は良い姿ではなく、彼らは冷たい目つきでいました。業務妨害?

 

 人々は冷たい視線で僧侶を見ていました。しかし、僧侶は何にも気にせず、休むことなく念仏を熱心に唱え、お辞儀をしつづけました。そうする内に僧侶の前にも多くのお金が貯まりました。時がたち、冬の寒さのため霙(みぞれ)が降ってきました。

 

 しかし、僧侶は念仏を唱えながらお辞儀を続けました。そして僧侶は続けていたお布施(ふせ)を止め、人々が寄付したお金を救世軍の慈善鍋(社会鍋)に全部入れて合掌しました。これまで僧侶に対する良くない心を持っていた人々は申し訳ない気持ちになり、ある人は僧侶にお茶でも一杯一緒にしてほしいと声をかけましたが、僧侶はただうなずくだけでした。僧侶は寒い雪の中でお布施をしていたのでとても寒かったでしょう。茶屋に座っている僧侶の服から寒さで湯気が、ゆら、ゆら、とたちのぼりました。

 

 お茶に誘った人は尋ねました。「お坊さん、たくさんのお金を頂いたのに救世軍の社会鍋に入れたのはなぜですか?全部をあなたが持って行っても良いのではないのですか?」お坊さんは言いました。「私も何か助けてあげたかったのです」。そこで彼が尋ねました。「いや、お坊さんはクリスチャンじゃ無いではない ですか」。お坊さんはたんたんと言い返しました。「仏が別にあるんですか?」。仏がイエスであり、イエスが仏です。

2023年11月号 掲載

『福音宣教と対話』

長崎 壮神父

 9月18日から23日までインドネシアの首都ジャカルタ近郊のバンドン(BUNDONG)というところでクラレチアン宣教会アジア地域の聖書司牧に関する研修が行われ、参加してまいりました。

 この集まりの目的は、昨年開催されたクラレチアン会の総会で聖書と対話(Bible and Communication)という部門があらたにできたため、それぞれの管区や国において、どのように聖書のみことばを用いた使徒職を展開していくか、担当者が集まり意見交換をし新たな計画を立てることにありました。

 クラレチアン会のカリスマの柱は“みことばの奉仕”ですから、このBible and Communicationという部門はもっともクラレチアン会らしい使徒職とも言えるでしょう。

また“聖書”だけでなく“コミュニケーション”とあるのは、聖書のみことばを伝えるだけでなく人々の生活の現実に目を向け、人々の声に耳を傾ける対話を大切にしていくというクラレチアン会の姿勢の表れです。

 

 アジアは様々な宗教文化が混在する地域ですが、私がこの研修のなかで興味深かったのは、聖書司牧の視点から諸宗教対話を考えるというものがテーマのひとつにとりあげられたことです。聖書をひもとけば、異邦人の客をもてなしたアブラハムの物語から始まり、神の民と異邦人との関りが数多くあります。

 今回の研修の参加者が宣教活動をしている国を見渡してみても、開催国のインドネシアはイスラム教人口が世界一多い国であり、インドはヒンズー教、スリランカは仏教が多勢を占め、カトリック信徒が多いのはフィリピンくらいですから、どの国においても諸宗教対話について考えざるをえない環境です。

 翻って私たちが暮らす日本の宗教文化を見てみますと、冠婚葬祭や特別な意向がないかぎり寺社を訪れ祈りを捧げる人は少ないようです。宗教に関心を持つ人も年々少なくなっているかもしれませんが、もはやこれもひとつの宗教文化と言っても過言ではないでしょう。このような状況の中で、私たちは人だけでなく文化とも対話をしていく必要があります。

 

 クラレチアン会がこれから再スタートを切る、“聖書のみことば”と“対話”を通じた使徒職は大きな可能性を秘めていますが、実りを得るには先ず宣教者が、イエス・キリストがそうであったように、出会った人や文化と尊敬をもって対話することです。

 この対話ということについて、神学校の授業の中である教授司祭が言われた次のようなことばを思い出します。「司祭・信徒も含めて真の対話ができている人は少ない。多くの場合、教義の上で相手を説得しようとしています。真の対話というのは相手によって、もしかしたら自分の生き方それ自体が変えられるかもしれないところまで、自分の心を相手に対して開くことです」。

 このことばは無神論者も含め諸宗教対話の場に立たされるたびに、私の心の中で重みを増していくことばです。

2023年10月号 掲載

『新教区設立』

フェリックス・マルティネス神父

 台風7号の中心が四国と大阪府、兵庫県の間を通り、大阪教区の多くの教会が聖母被昇天のお祝いを中止とした8月15日に、バチカンの教皇庁から二つの発表がありました。教皇フランシスコは、大阪と高松の両教区を統合し、新たに大阪高松大司教区を設立しました。そして、教皇フランシスコは、現大阪大司教区大司教のトマス・アクィナス前田万葉枢機卿を新大司教区の初代大司教に任命しました。


 この発表を受け、8月31日に臨時月修(大阪教区にいる司祭と司牧に携わる聖職者の集まり)が決まり、できるだけ多くの方が参加するようにと強く呼びかけられました。普段幼稚園の仕事のため参加をあきらめていた私でしたが、今回は参加しました。


 この臨時月修の始まりに前田枢機卿の話があり、バチカンの決定を説明されました。高松教区の諏訪榮治郎司教が75歳になって、教区長として引退されたのは2022年9月26日でした。しかし、後任の司教は任命されませんでした。数か月後バチカンから両教区の司祭評議会に相談があり、話し合われたそうです。今回の統合は、その結果となりました。既存の大阪大司教区に高松教区が合併されるのではありません。新しい大司教区の誕生であることが強調されました。


 いろいろなレベルでの改善や変更、見直しが必要となることでしょう。それぞれの教区の担当者によって意見交換を重ねて、神様が新大司教区に求められていることを識別し、新体制を整える必要があります。できるだけ来年の3月末までに整えたいとの話でした。様々な面で不安があるでしょうが、共に歩み、教会を築いていけるように進んでいくため、皆様のご協力をお願いしたいと思います。


 その後、酒井補佐司教は新体制を考える上で、宣教司牧計画や宣教司牧評議会、地区編成、さらに様々な委員会、カトリック時報など、大きなテーマとなる事柄について話されました。
 

 ちなみに、新大司教区には今の両教区を合わせると99の小教区があり、信者数は52,242人になり、東京教区、長崎教区、横浜教区に次いで日本で4位の教区となります。10月9日に大阪カテドラルで行われる大阪高松大司教区設立式と前田万葉新大司教着座式をもってスタートを切ることになりました。


 今回の新大司教区の設立は、私たちにとって大きな恵みとなることを期待したいと思います。ポスト・コロナという3年間の冬眠からの目覚めと重なり、私たちの「真理」を押し通す教会ではなく、フランシスコ教皇が何回も繰り返しているように「聖霊に従ってすべての人とともに歩む」旅路を見つけることができるように祈るとともに、一人一人ができる小さな協力を惜しまない新しい大司教区になりますように。

2023年9月号 掲載

『隠遁者の祈りを知って学べ』

ハイメ・シスネロス神父

 この度わたしは司祭金祝を迎え、皆様からたくさんの祝意を受けました。心からお礼を申し上げたいと思います。

 さて、“信仰に生きる” 教えを初代教会の資料に学んで来た人は多数います。『信者たちは皆一つになって、すべての物を共有し、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心を持って一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。』(使徒言行録2:44-47)。

 

 その他、福音書には主キリストに出会う人の中に隠遁者が誕生したと書かれています。彼らは“キリストに学び、キリストに従う”生き方によって、神の国が近づいたことを証ししています。その狙いに近づく際、世代ごとに状況が変わり、それに相応しい形を探すことになります。聖霊の導きを祈る中で、具体的な霊性を身に付けるわけです。例えば、東には聖バシリオと聖パコミオ、西には聖ベネティクトの霊性に基づいて、修道生活と隠遁生活が生じました。聖アントニオ修道院長は代表的な人物です。隠遁者は、砂漠に臨んで孤独な生活を送ります。特にエジプトとパレスチナでその運動が盛んになりました。

 『荒れ野の教父』の書物の中から4箇所を紹介します。聖アントニオ修道院長を『アッバアントニオ』と呼んでいましたが、

 ①ある人はアッバアントニオに尋ねました。『神に喜んでいただくためにはどうすれば良いでしょうか』アッバアントニオが答えました。『どこへ行っても、目の前に神の存在を置くようにする。また、何かをする時には、聖書からヒントを学ぶ。あなたの住居(所属場)を長く使用する。この3点を守るようにしなさい』。

 ②『生きること・死ぬことは隣人によって決められます。兄弟を得れば、神を得るし、兄弟につまずきを与えれば、キリストに背くことになります』。

 ③ある人が『わたしのために祈って下さい』と願ったとき、アッバアントニオは『あなた自身が努力をして願うなら、神の憐れみが得られ、あなたの祈りは適えられます』。と答えました。

 ④アッバアントニオの信仰告白『わたしは神を恐れない。神を愛する。愛は恐れに打ち勝つ』。

 これらについて、共に考えてみませんか。

2023年8月号 掲載

『信仰を結ぶ絆の重要性』

タラン・スン・ニュ・イ神父

 教会の一致は、クリスチャンとしての信仰を結び つける重要な要素です。教会は、信仰と奉仕の共同体で あり、その一致はクリスチャンの信仰体験と成長に おいて、不可欠な役割を果たしています。今回は、教会の 一致の重要性、障害、促進方法について探求し、教会が 持つ潜在的な力と役割を学びましょう。

 

 教会の一致は、個々の信仰者の結束を高め、共同体の 強さを形成します。キリスト教の教えでは、愛と共に 一致することを奨励しています。イエス・キリストは 弟子たちに、「互いに愛し合いなさい」と教え、教会が 一つの体となり、共に成長するように促しました。 一致は、個々の信徒が互いに支え合い、励まし合う場を 提供し、信仰の深化と成長をもたらします。

 

 しかし、教会の一致を実現するためには、いくつかの 障害が存在することも認識しなければなりません。 信仰の解釈や文化的な違い、教義上の意見の相違、 人間の欲望やエゴなどが教会の一致を妨げる要素と なる場合があります。また、人々の個々の信仰の成熟 度や経験の差も、一致の障害となることがあります。 これらの障害を克服するためには、相互理解、寛容さ、 謙虚さが重要です。

 

 ですから、教会の一致を促進するためには、以下の 方法が有効だと思います。 1) 相互尊重と理解の促進:異なる信仰の解釈や 文化的な背景を尊重し、他者の意見に対して 理解を深めることが重要です。出来れば、オープンな 対話やコミュニケーションの場を提供し、誤解や 偏見を排除することが必要です。

2) 共通の目的への集中:教会は共通の目的を持つ コミュニティです。その目的に焦点を当て、個々の 意見や利益よりも、神への奉仕や他者への愛に 集中することが重要です。共通の目的は、一致を 促進する強力な結びつきとなります。

3) 共同の礼拝と祈りの実践:共同の礼拝や祈りの 実践は、教会の一致を深める重要な手段です。信徒 たちは共に礼拝し、祈り、聖書の教えに学びながら、 共通の信仰の基盤を築くことができます。

 

 このように、教会の一致は、クリスチャンの信仰体験と 成長において不可欠な要素です。一致は、信仰者の 結束を高め、共同体の強さを形成します。教会は一つの 体であり、共に成長するための神聖な場です。その 一致の力を信じ、努力することが、クリスチャンの 使命となるでしょう。

2023年7月号 掲載

『人生の中で一番重要なこと』

尹 相鎬 ユンサンホ 神父

 人が世の中に生きていて、一番大切なことは何で しょうか。それは、永遠の命を求め神を信じる人 たちにとって不可欠な神の賜物についてです。その 賜物は、神様が私たちの父であることを知って、それを 知らせることです。それが何よりも大切です。

 世々に至るまで、子供たちに教えるべき遺産です。 信仰で最も重要なのは霊性です。霊性とは、すべて が神の意思通りに行われており、その方と一緒に歩き、 共に生きること、そしていつも生活の中でそのこと を認識して生きることです。  私たちは、今の時代の忙しさの中で一生懸命生き ていても、霊性を忘れてしまうことがあります。何が 重要なのか分からず忙しく動いています。そんな中 で、神様が今も私たちと一緒に生きていて、私たち を愛され、必要なすべてのものをくださる方である ことを信じることが信仰です。

 主は復活して弟子たちに現れ、勇気と希望、愛と 平和を与えられ、ご自身を現しました。主を三回裏 切ったペトロに「お前は私を愛しているのか?」と尋 ねました。すべてを知っておられる主はペトロにこ のように言います。「私はあなたを愛していることを私の死で示した。ところで、あなたは私を愛しているのか?」 と。私は命を尽くしてあなたを愛し、あなたのために死んだのだと言います。イエスの愛 はとてもはっきりしていて、そのメッセージを私た ちが理解することが大切です。

 神様が私たちの父であることを知らせること。 これを認識するのが信仰です。これに気づいて生き ていく時、いつも喜んで祈り、感謝して生きていけるのです。

 信仰の喜び、神を知る喜び、主が私たちのために 死んで復活されたということを知ることが救いです。 イエスはすべての人を父のもとに集めます(ルカ 13・ 34)。「めんどりが雛(ひな)を翼の下に集めるように、 私はお前たち子どもらを何度集めようとしたことか。 だが、お前たちは応じようとしなかった。」イエスが 神の愛を証しした「互いに愛し合うこと」これが神の 法則です。 いつも新しい生命として、イエスか ら生まれているみ言葉です。それを忘れがちな今の 生き方で、今年も半年過ぎ去りました。

 私たちが、信者としての生き方として、霊性を深め、 喜びのうちに、永遠の命である神様を賛美すること が出来ますように。

『聖クラレットと同じ夢をみながら』

2023年6月号 掲載
長崎 壮神父

本年度復活祭のあと、〝しろきたブロック〟の司牧チームはあらたになりました。いずれもクラレチアン会の三人の司祭がブロック外から入り、これから信徒の皆様とともに祈り、協力しながら、それぞれに歴史やカラーの異なる各小教区の再活性化に取り組むことになります。

司牧チームはこれから本格的な司牧・宣教活動を行うわけですが、それに先立ちクラレチアン会では東アジア管区の黙想会を宝塚市の黙想の家で行いました。

管区全体の黙想会ですから日本で働く兄弟の他、台湾、香港、マカオ、中国本土で宣教に励む兄弟が集い総勢は三十名近くになりました。

彼らとコロナ禍で会うことのできなかった期間の体験、これからの使徒職の夢を分かち合い、友情と一致を深めることができたことは大きな恵みです。

このコロナ禍において日本の教会活動の多くが休止しておりましたが、この間に東アジア管区ではキリスト教が認められていない中国本土から何人もの神学生が生まれ、以前から入っていた神学生も養成が進み助祭に叙階された兄弟、まもなく終生誓願を迎える兄弟もいて、教会活動が休止していているように見えても〝刈り入れの主〟は働いていることを強く感じました。

さてこれから皆様にお世話になります私自身の挨拶もかねてこの誌上で〝しろきたブロック〟での思いもお伝えしておきたいと思います。

私は2015年の4月に大阪カテドラルで司祭叙階の恵みを受けてからの8年間を枚方教会で過ごしてまいりましたが、このたび〝しろきたブロック〟に派遣されたことは宣教的なカリスマをもっているはずのクラレチアン会の会員としても成長できる場だと思っています。

クラレチアン会員はひとつのところに長い間とどまるよりも、必要とされる場所へ派遣される自由さを持たなければなりません。私の司祭叙階のときに記念カードのために選んだ〝みことば〟も聖アントニオ・マリア・クラレットの生き方をよく表していると思って選んだ「どこかほかの町や村へ行こう。わたしはそこでも宣教する。私はそのために出てきたのである」(マルコ1:38)でした。

そしてカードの裏に描かれた絵は聖アントニオ・マリア・クラレットが十字架と聖書を手に持ち村の中を歩んでいく姿でした。聖クラレットの肩には聖霊をうちに宿したイエスが手を掛けて共に歩み、クラレットが通るところには光が差すという構図です。

私と共に〝しろきたブロック〟に新たに派遣された二人の司祭も同じ気持ちだと

思います。クラレチアン会の司牧チームのメンバーが皆様に希望と光を与えることができるよう神様の助けのもとに歩んでいこうと思います。

そしてコロナ禍以前よりもさらに活気と宣教的熱意に溢れたしろきたブロックを

ともにつくってまいりましょう。

2023年5月号 掲載

『行く人来る人(神父たちの人事)』

フェリックス・マルティネス神父

 しろきたブロックの皆さん、ご復活おめでとうございます。

 知らない人はいないと思いますが、大阪教区の人事が発表されてしろきたブロックの神父たちが大きく代わります。竹延神父様は枚方教会に、ナン神父様は京都教区の伏見教会に移動します。ニュ・イ神父様が香里教会、長崎神父様が枚方教会、ユン神父様が京都教区の衣笠教会からしろきたブロックに来ることになりました。

 先ず、名前と顔を覚えましょう。今まで司牧チームのモデラートルだったハイメ神父様は協力司祭として残ることになりましたので一安心。私は相変わらず幼稚園の仕事をしながら、日曜日は日雇い神父としていろいろな教会の手伝いをし、あぶれたら今市教会のミサにオトナシク顔を出すことになります。

さてと、来てくださる神父様達はどんな人だろうかと心配する方もいるかも知れません。性格は?活動的でしょうか。霊的な人でしょうか。得意とすることと苦手なところは等々、浮かんでくる疑問はきりがありません。しかし、信者の共同体として、新しいチームを迎えるにあたって、何が大切だろうかと考えるのが先決ではないでしょうか。

 ほとんどの人にとっては新しい出会いになりますので、偏見や推測は禁物です。期待を持って学ぶ姿勢が一番大切なことではないかと思います。素直な気持ちで積極的にコミュニケーションを取ることによって、必要な時に相談しやすくなります。

 暖かく迎え入れられたら、誰でも笑顔になって頑張ろうと思うに違いありません。いくつかのことが変わっていくでしょう。今、シノダリティー(共に歩む)の時代なので、新しい神父様は、自分たちがやりたいことを前面に出すより、先に「何をしてほしい?」と聞く姿勢をしめす可能性が高いと思います。その時は遠慮しないで、積極的にアイデアを出すと同時に、協力的な姿勢を見せることがいいと思います。

 復活を祝ったところですので、新しい神父様達とともにしろきたブロックの三つの教会に新しい風が吹くように期待したいものです。

最後に願うことは、祈ることを大切にすること。信者さんからの祈りは最高の支えとなります。新しいチームと私たちみんなの上に、神様からの息吹と力が注がれますように。

2023年4月号 掲載

『四旬節には何をするべきでしょうか。なぜでしょうか。』

グエン・バン・ナン神父

四旬節において、教会は私たちに三つのことをするように招いています。それは断食、お祈り、そして施しです。なぜ他のことでなくこの三つなのでしょうか。

四旬節第一主日のみ言葉、特にイエス様が受けられた誘惑を通して、教会は断食についてこう答えています。まず、自分の弱いところに気づき、周りのたくさんの誘惑や欲望が色々な姿で表れること、間違いや迷いに気付くためです。断食を通して自己愛を捨て、古い自分を脱ぎ捨て、柔和に謙遜に生き、そして、罪を遠ざけ、犠牲を払うことを学ぶためです。また、困難を乗り越えた経験を通して、私たちは心を開き、人に関心を持ち、分かち合い、助けることができます。つまり、断食によって、私たちの信仰は養われ、希望が高められ、愛が強められるのです。

四旬節第二主日のみ言葉、特にイエス様の姿が変わることを通して、教会はなぜ祈るべきかに答えています。一つ目の理由は、お祈りを通してこそ、私たちは神様に出会い、神様の声を聞き、神の栄光を仰ぐことができるのです。二つ目の理由は、祈ることによってキリスト者の使命に気付くことが出来ます。イエス様に倣い、日々古い自分を脱ぎ捨て、自身を変えることが出来ますように。

なぜ施しをするべきか、ヤコブの井戸でイエス様がサマリアの女から水を乞われたことを通して、私たちは気付きます。神様はイエス様に倣い、「不正にまみれた富で友達を作るよう」私たちに望まれています(ルカ16・9)。

施しとは必要な人に何らかの物を与えるだけではなく、努力によってお互いに心を開き、分かち合い、正し合い、愛し助け合い、特に私たちの御父が憐れみ深いように、私たちも憐れみ深い者となることです(ルカ6・36−38)。ということは、「人を裁かず、人を罪人だと決めず、更に赦し、与えましょう。そうすれば、許され、与えられ」ます。そうするために、イエス様の言葉を心に留めましょう。

「押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである」と。

アーメン

2023年3月号 掲載

『新しいいのちが芽生える時、幸せになる時』

ハイメ・シスネロス神父

 1年には12ヵ月があり、各月には特徴があります。わたしにとって人生の歩みの中、3月は特別なイメージがあり、思い出が多い月です。その一部を思い起こしてみました。初めに、春の美しい季節、いのちの芽生えの豊かさが見え始めるのは3月です。日本ではさくらの開花に伴うお花見の楽しい風景が毎年見られます。
 また3月には、社会、学校、教会の中にも動きがあります。旅するイメージを抱いても無理ありません。わたし自身が司祭叙階を受けて3年目に、日本への派遣の話があり、3月の終わりに日本に旅立ちました。教会では復活祭を迎える時期で、日本で初めてその典礼の神秘に与かり、感動したことを今でも覚えています。
 東京で2年間日本語学校に通い、卒業したのが3月で、大阪に引っ越して枚方カトリック教会で2年間司祭の務めを果たした後、今市教会に異動となったのも3月です。3年の区切りごとに場所移動となり、名古屋市の緑ヶ丘教会に派遣されたり、しろきたブロックに派遣されたりして来ました。
 今回76歳になり、次の移動が決まりましたが、教区の発表を見てほっとしました。従順だけではなく、喜びのうちに教会の中で奉仕ができる新たな機会が与えられて幸せです。それには、感謝の心で受けとめる理由があります。わたしは今年6月29日に、司祭叙階50周年を迎えます。どうか、わたしのために祈りをささげて下さり、共に感謝をささげて下さい。
最後になりますが、ご復活を迎える準備として、教皇フランシスコの言葉に触れて3月の祈りを勧めます。①わたしたちは完全な者ではなく幸せになるために生まれたのです。②一日の最も美しい時間は朝です。なぜかと言えば、“起きる時ですよ”、と神が話して下さいます。③あなたの生き方をやり直すために新しい機会を与えます。④今日のやさしい出来事は幸せを味わい、厳しく辛い物事は鍛える力を目指すためにあるのです。⑤努力する中ではきっと強くなれます、また、転ぶ中では謙遜になれます。神のみ摂理によって、倒れた時にこそ、立つことの出来る恵みがあることを知り、感謝します。

2023年2月号 掲載

『トルレス神父を知っていますか?』

竹延 真治 神父

 フランシスコ・ザビエルは日本にキリスト教を伝えるために1549年8月15日に鹿児島に上陸した。しかし、ザビエルは鹿児島の後、平戸・山口・大分にしばらく住み、その間に京都で日本国王に布教許可を得ようとしたが天皇に謁見することさえかなわず、寒さと餓え、疲労困憊、人々からの軽蔑・非難中傷に直面する。わずかの日本人に洗礼を授けただけで、2年と3ヵ月後に日本を去る。いったん、インドのゴアにもどり、今度は中国への布教を試みるが、広東省の沖にある上川島で熱病にかかり帰天する。
 戦国時代の終わりには現在の日本のカトリック人口に匹敵する40万人のキリシタン(カトリック信者)が生まれたというが、それはザビエルの遺志を受け継いだ宣教師たちがいるからだ。その中でも、日本の教会の土台を築いたと言っても過言ではない人、その人がトルレス神父だ。恥ずかしながら、昨年9月に九州を旅する前まで、わたしはトルレス神父のことをほとんど知らなかった。
 ザビエルは1人で日本に布教に来たのではない。イエズス会の仲間2人がザビエルと同じ船で鹿児島に上陸していたのだ。2人の内の1人はスペインのバレンシア地方出身の39歳のコスメ・デ・トルレス神父、もう一人は同じくスペインのコルドバ出身23歳のファン・フェルナンデス修道士である。ちなみにザビエルは、来日時は43歳でスペインとは言ってもバスク語を話すナバラの出身だ。ザビエル以外の2人は日本に留まり、日本での宣教に生涯をささげ、日本に骨をうずめた。
 若くして来日し、日本語をよく話せるようになったフェルナンデス修道士は大人や子どもの信仰教育や宣教師の語学教育や通訳の面でトルレス神父を支えた。
 一方で、ザビエルの後を継いで20年間もの長きにわたって日本の布教長としてイエズス会の宣教師たちと日本の教会のかじ取り役を果たしたのがトルレス神父だ。
 スペインの教区司祭であったトルレス神父は、最初は神学校のラテン語教授に任命されるが、メキシコでスペイン艦隊付の司祭に応募するという異色の経歴を持つ。艦隊が遭難したモルッカ諸島でポルトガル人に投降した後、ザビエルと出会い、ザビエルに魅了され、イエズス会に入会する。ザビエルが去った後の日本で彼の脳裏に焼き付いていたのは、憔悴しょうすいしきったザビエルの後姿かもしれない。トルレス神父はザビエルを“師(マエストロ)”と呼び、その布教方針を徹底して受けついだ。日本人の生活様式に自分たちを合わせ、決して肉を食べなかったという謙遜さ、病者・弱者の中にイエスを見出す、下からの宣教を基本姿勢とした。その一方、医者で商人出身のアルメイダ修道士に日本初の総合病院を開設させ、横瀬浦で大村純忠に洗礼を授け、淋しい漁村に過ぎなかった長崎を南蛮船が廻航する港にし、キリシタンにとっての聖地となるきっかけを作ったのも他ならぬトルレス神父だ。
 1570年に亡くなる直前に来日したカブラル神父に布教長を引き継ぎ、天草の志岐しき(現:苓北町れいほくまち)で行われたカブラル布教長の下での宣教師会議に参加してまもなく帰天した。葬儀を司式したのは、河内の飯盛山で三好長慶配下の武士七十余名に洗礼を授けたあのガスパル・ヴィレラ神父だ。昨年、天草を訪れた時に立ち寄った志岐の町はずれで、「トルレス神父の墓を探しています。」と書かれた立札を見かけた。天草・島原の乱でキリシタンがほぼ絶滅し、今はほとんどカトリック信者がいないこの町の人は、トルレス神父のことを知っているのだ。

2023年1月号 掲載

『新しいミサ式次第』

フェリックス・マルティネス神父

 今回の前田大司教のクリスマスカードにはこのように書いてありました。「新しいミサ式次第の使用が始まり、今まで慣れ親しんだ言葉遣いから変化がありますが、一つ一つの言葉に大切な意味があります。大切に唱えながら、日々の祈りとともにミサやご聖体を大切にしていきましょう。」
 今まで私たちが使っていたミサの式次第は「試用」としての認証でした。私の記憶では、少なくとも30年も前から、「見直す必要がある」とか、「最終版を作らなければ」等と言われていました。しかし、できる専門家たちが忙しいからなのか分かりませんが、だれも手をつけずに来てしまいました。
 ヴァチカンの教皇庁典礼秘跡省は、4年(?)前に全世界のための最新バージョンを出しました。それを元に各国の典礼委員会がその国の言語の翻訳をすることになりました。日本語での新しいミサ式文の出版は遅い方でした。
 世界中を襲った新型コロナウイルスの感染防止のため、公のミサができなくなったり、参加者の制限があったりして、3年前からミサに与かる機会が減りました。未だに参加者制限されている教会が多い。高齢者が多い日本の教会には仕方のない決まりでしょうが、結果として、日曜日ごとのミサ参加の大切さは随分薄くなったと思います。
 このような状況の中、新しいミサ式次第が決定され、その使用が始まったことで、前田大司教が言うように、「慣れ親しんだ言葉遣いから変化があり」、新しい言葉には神父様たちを始め、だれもが戸惑いを感じています。私自身のことを言うと、前の言葉が頭から抜けきれないで、ミサごとに数回間違っています。間違わないようにと意識していますが、前の言葉が口から出てきてしまいます。いかに機械的に祈っているかと気づかされます。ミサが終わり、香部屋に戻る時、いつになったら慣れるのだろうかと毎日悔やんでいます。
 しかし、良いこともあります。変更された言葉の意味を考えることです。何も考えずに、ぺらぺらと唱えていた文書は、「こういう意味だったのか?」と改めて意識するようになりました。例えとして、回心の祈りでは、前の「主よ、あわれみたまえ」が「主よ、いつくしみを私たちに」に代わって「あ…神様が赦してくださるんだね」と意識することが出来ます。また、拝領前の信仰告白では、前の「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、あなたを置いてだれのところに行きましょう。」が「主よ、私はあなたをお迎えするにふさわしい者ではありません。おことばをいただくだけで救われます。」に代わりました。意味はあまり変わっていませんが、意識することによって理解を深め、ミサそのものの味わいが濃くなったように感じます。
皆さん、時間がある時に、変更した個所を読み比べてみてはいかがでしょうか。きっとミサの意味や理解を深めることが出来ます。まだ新しい言葉になれない間、今がチャンスです。そして、ミサのことをさらに大切にできればと願っています。

 

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