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今月のメッセージ 2021

毎月の教会新聞に掲載している、司牧チームによる「巻頭言」の2021

年のバックナンバーです。

2021年12月号 掲載

『ともに歩む教会のため~交わり、参加、そして宣教』

フェリックス・マルティネス神父

 このタイトルは第16回シノドスのテーマです。2023年10月にローマで開催される世界中の各国司教協議会の代表者会議となります。2年後なのに、なぜ今からと疑問に思う人は少なくないでしょう。

 教皇パウロ六世が、第二バチカン公会議の思いを受けて始めた会議です。第二バチカン公会議は大きな改革を打ち出しました。教皇様や、司教や、聖職者を中心とする教会から神の民(信徒)を中心とする教会への変化でした。トップダウン的な教会から下から吸い上げる教会へ。その考えに基づいてパウロ六世が信徒を代表する司教の集まりを始めたのです。その時に教会が直面する課題をローマの方で教会のトップ数人だけが考えて決めるのではなく各国の代表者を集めて一緒に考えようという発想です。

 今回教皇フランシスコは、その考えをさらに徹底した形で次のシノドスを進めようとしています。しかし、会議の進め方の方法だけを変えるのではありません。教会の在り方そのものを見直そうとしています。

 まったく新しいことではありません。小教区レベルで考えても、主任神父の一言ですべてが動いていた時代と比べたら、今は様々な委員会等があり、評議員会でまとめられ、その中でほとんどのことが決まります。

 日本においては、司教団から出された「日本の教会の基本方針と優先課題」の文書があり、ナイスⅠ(NICE-1)とナイスⅡ(NICE-2)に続いて、大阪教区では「新生計画」に発展しました。教会は信徒を始め地域の「交わりの場」であり、イエス・キリストに倣って神様の「愛の証」の共同体に生まれ変わることを目標としました。「ともに歩む教会~交わり、参加、そして宣教」という今回のシノドスのテーマとダブって見えるのではないでしょうか。

 今までのシノドスの準備は司教様たちから始まって一般信徒にはあまり関わりのないことでしたが、今回教皇フランシスコの強い意志があって、できるだけ多くの信徒の体験や意見を聞くことから始まります。具体的なことはこれから示されるでしょう。皆さんの協力が期待されています。

 コロナウイルス感染防止対策としてすべての活動が中止になり、日曜日のミサさえもなかったり、あるいはたまにしか参加できなかったり、個人的に祈ることしかできなかったこの2年間の寂しい状態から目覚める時期が来たのかもしれません。        

 初代教会の姿を振り返りながら私たちが信仰生活、教会生活の初心に戻るきっかけとなれば、神様が与えてくださった回心のチャンス、大きな恵みとして受け止めたいものです。

2021年11月号 掲載

『日本語での試験に 一回で運転免許取得の奇跡』

グェン・バン・ナン神父

 今日の福音でイエス様は二つの奇跡をなさいました。「どうしてこのような奇跡が現在は起こらないのか」と私たちは自問するかもしれません。
 私たちは困った時に奇跡を望みますが、実際には見たことがないからです。こうして希望を失ってしまいます。皆さん、なぜ現在は神様の奇跡が見えにくいでしょうか。
 教会は、今日のみ言葉を通して考えられる理由を示しています。日々神様の奇跡に気付けない理由、その一つはおそらく私たちが神様を信頼し、神の摂理と愛を信じていないからです。そして、困った時に神様に助けを求める代わりに文句を言い、神様が悪や苦しみの原因をつくられるのだと考えるのかもしれません。しかし知恵の書によると、「神は死を作られたわけではなく、命あるものの滅びを喜ばれるわけでもない。生かすためにこそ神は万物をお造りになった。世にある造られたものは価値がある」のです。神の慈しみと愛を信じない人は、教会に来てお祈りする必要がないのです。福音の女のように「イエス様の服に触れるだけで癒していただけると思う」ことは絶対にないのです。この女性の行動から私たちは学びます。   

 神様を信頼するならば、道を一生懸命探し、望みがかなうまで頑張ります。おそらく現代社会の一番の問題は忍耐力が弱いことです。やさしい道を選び、難しい道は諦めてしまうのです。皆さんご存知のように、緊急事態宣言の間、公開ミサが中止されていました。でも、お祈りのために、毎朝6時半に教会に来られる方がいらっしゃいました。
 沢山の方が、雨が降っていても、日曜日にご聖体訪問をされていました。私はとても感動しました。誰でも皆さんのように、お祈りと御ミサを大切にされることを私は望み祈っています。
 皆さん、奇跡が起こるためには信仰が重要だと言えます。奇跡を起こされた後、イエス様はいやされた人によくこう言われました。「あなたの信仰があなたを救った」今日の福音でもイエス様は女に、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」と言われました。また、会堂長の家の人々から「お嬢さんは亡くなりました」と聞き、イエス様は家族に言われました。「恐れることはない。ただ信じなさい」と。
イエス様は、不信仰が、奇跡が起こるのを妨げることをよくご存知なので、周りの人々を外に出されました。
 二つ目の理由は、奇跡を起こすための神様との協力が足りていないのです。人を通してのみ、神様は奇跡を起こされます。例えば、神様が貧しい人にパンを与えたいと思われるときには、私たちの心に愛と慈しみがたくさん注がれるのです。私たちは神様の愛に駆り立てられます。この愛によって、私たちは貧しい人々と自分のものを分かち合うのです。つまり、貧しい人は豊かな人となるために、見えない人は見える人となるために、不自由な人は自由に動けるようになるために、教会はイエス様に倣うよう招いています。「主の貧しさによって私たちが豊か」になったように、貧しい人と豊かさを分かち合い、見えない人の目となり、聞こえない人の耳となり、不自由な人の手足となるのです。そうすれば、私たちは毎日神の奇跡を感じ、見ることができるはずです。
 このことについて思い巡らすと、私は自分の経験に思い至ります。今年の復活祭の後、私は鳥取県で二週間の運転免許コースを勉強しました。私の日本語はまだ大変ですので、竹延神父さんはこう言われました。
 「ナンさん、運転免許を取るのは日本人でも難しいのに、二週間で取るなんて本当に無理だと思います。ですから、延びても良い、ゆっくり勉強してきてくださいね」。私は最初本当にそうだと思いました。しかし、「神様を信頼すれば、奇跡が起こるはず」と自分に言い聞かせ、固く信じました。そして、一生懸命頑張り、クラスの前、運転を練習する前、テストの前に、三位一体の神、聖母マリア、全ての
聖人、そして、全ての亡くなった人に祈り、助けを求めました。その結果、試験に一回で合格できました。私も神父さん達もビックリし、信じられませんでした。
 これは本当に奇跡です。皆さん、神様の奇跡を日々感じるために神様を信じ、神様と協力していきましょう。アーメン。

2021年10月号 掲載

『宣教と観想をモットーにしたい』

ハイメ・シスネロス神父

 わたしは子どもの時から侍者と聖体訪問が好きでした。12歳でクラレチアン会の小神学校に入り、26歳に司祭叙階を受けて3年後、日本に派遣を受けました。聖アントニオ・マリア・クラレットの特徴は働きにおいて観想する宣教師としての評価があります。わたしはバランスを取ることを意識し、目標にして来ました。すべてのキリスト信者にも当てはまる精神だと思います。

隠遁者たちが大事にする霊性には大切なヒントがあるので、その観点から調べてみました。

 信仰に生きる霊性の入り口にはイエスの招きがあります。『わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい』(マルコ8:34)。 

 ここで、 聖パコミオが歩んだ信仰の道がどんなものだったかを紹介したいと思います。エジプトの異邦人家族の息子として生まれましたが、成人となって始めてキリスト教に縁を持ったきっかけは、愛し合っているキリスト者グループに出会ったことです。求道者となり、洗礼を受けましたが世間の中でキリストの愛に生きるには、困難が多いと感じてどうすれば良いか祈った時、『荒れ野で探せ・荒れ野で探せ』という声が心の中で響きました。砂漠へ行ってパレモンと呼ばれる老人の隠遁者に出会いました。指導を願ったところ、隠遁者の基礎である、内心の生活の秘密、情欲を制すること、悪魔の誘惑に打ち勝つこと以外、『心を開いて祈る』ことを学びました。七年間勤めましたが、その後夢を抱いて別な召命を目指しました。

福音的な交わりのある修道生活の創始者となり、共に働き、共にいのり、一緒に食事をするという精神に基づく共同体の育成に力を注ぎました。自由意志を放棄し、院長に従順であるという修道生活です。30年間ほどこういった奉献生活に力を注いだ後、346年にエジプトに恐ろしい流行病が広がったため、大勢の修道士と共に聖パコミオはあの世へ旅立ちました。教会の歴史に素晴らしい功績が残されました。

さて、隠遁者の言葉から祈るヒントを頂きましょう。

1.神に喜んでいただくため、『どこへ行っても、目の前に神の存在を置くようにする。また何かをする時には、聖書からヒントを学ぶ。あなたの住居を長く使用する』の3点を守る。

2.生きること、死ぬことの質を選ぶ。『兄弟を得れば、神を得るし、兄弟に躓(つまず)きを与えれば、キリストに背く』のである。

3.祈りを願う人に勧める。『あなた自身が努力をして願うなら神の憐れみが得られ、わたしの祈りが適えられる』とある。

コロナ下において参考にしたい言葉です。

2021年9月号 掲載

『二つの壺の話』

シスター 高橋由美子

 今年の夏は、コロナの感染拡大の不安とオリンピック競技に気持ちを奪われました。それに加えて私の所属する修道会では、6年に一度の総会がありました。総会とは今後6年間の宣教課題について審議し決議をしますが、今回はグレゴリアン大学の教会法専門の司祭に指導していただきました。これまでの修道会のあり方を振り返り、今後の「福音宣教」「外国宣教」「共同体」「養成」「高齢化」などの方針を決め、そのリーダーが選ばれます。修道会にとってとても大きな行事のために、頭が真っ白になっていますので、その時に聞いたお話を紹介します。

 

 一人の老女が2つの壺をもっていました。天秤棒の両端に1個ずつ下げ、それを背負って水を運ぶのです。1個の壺は傷ひとつなく完全で、いつも縁まで一杯に水をためておくことが出来ましたが、もう一個の壺にはひびが入っていました。老女が小川で水を汲み、長い道のりを歩いて家に着くころには、ひびの入った壺に入れた水は半分に減ってしまっていました。2年もの間、毎日この調子でした。老女は壺1個半分の分量しか家に持って帰ることが出来ませんでした。当然、満杯の水を運べる完全な壺は鼻高々です。

 一方、ひびの入った不完全な壺は恥ずかしくて仕方がありません。本来の分量の半分しか発揮できない自分がとてもみじめでした。2年も辛酸をなめてきたある日、ひびの入った壺は小川のほとりで老女に話しかけました。「わたしは自分が恥ずかしくてたまりません。この脇のひびのせいで、せっかくの水があなたの家に向かう途中ずっと漏れ出してしまうのですから」。老女は微笑んで答えました。「気が付いていたかい?お前が通る側の道端には花が咲いていて、もう一つの壺が通る側の道端には花が咲いていないことを」。「お前の欠陥はずっと前からわかっていたよ。だから、わたしはお前が通る側の道端に花の種をまいておいたのさ。わたしたちが家路につくたびに、お前が花の種に水をやっていたんだよ」。

「おかげで2年の間、わたしはここからきれいな花を摘んで家の食卓に飾ることが出来たのさ。今、あるがままのお前がいなかったら、この家をこんなに美しく彩ることはできなかったんだよ」

 

 修道共同体は欠点だらけの人間の集まりですが、連繋プレーによってきれいな花を咲かすことが出来るのです。

2021年8月号 掲載

『父と母を結びつけるもの』

巻頭言 竹延 真治 神父

 還暦を過ぎてからわたしは自分の人生を振り返るようになった。神父になって何十年たっても、信仰は増すどころか年々やせ細っていくばかりのように思える。前を向かないで、後ろを振り返り、幼年時代からの出来事や出会った人のことを思い起こし、神さまは何のためにこのような出来事をわたしに与えたのだろうか、また、どうして神さまはこの人とわたしを出会わせたのだろうか、というようなことを考え始める。

 その中で最大のなぞは、「父と母がどうして結婚したのか?」ということだ。母は熱心なカトリック信者なのに、父は徹底した無神論者だったからだ。母はわたしたちこどもに日曜日には教会に行かせようとするし、父は「神なんかいない、教会なんか行くな」と言い、祈りの本を破り捨てた。ある時、母に「おとうちゃんとおかあちゃんのどっちの言うことを聞けばいいの?」と尋ねたことがある。母は、「父親から『今日は雨が降るから下駄を履いて学校に行きなさい』、母親から『今日は晴れるから草履を履いて学校に行きなさい』と言われた昔の子どもは、片足には下駄を履き、もう一方の足には草履を履いて学校に行ったものだ」と答えた。さすがに、右足に運動靴、左足に長靴を履いて学校に通ったことは一度もなかったが、わたしの心の中はいつも“下駄と草履を混ぜ合わせて履く”状態だった。

 母が逝って二十数年後、父が亡くなる直前に、病院で父に付き添っていたわたしの妹が父のうわごとを聞いたという。父は「こども、戦争、平和」という言葉を無意識のうちにも繰り返していたという。それを聞いたわたしは、小学校のころ、子どもたちが戦火の中を逃げ回っているベトナムからのニュースを、両親といっしょに見ていた場面を思い出した。「戦争は絶対にあかん!」これこそが父と母がいっしょになってわたしに言い聞かせて来たことではないか。

 もう二度と軍備を持たない、武力によって紛争の解決をはかることを永遠に放棄する、日本国憲法第9条の存在は、カトリック信者の母にとっては信仰のあかしであり、無神論者の父にとっても自分の信念と哲学を貫き通すしるしであったように思う。

 父と母から受け継いだものをわたしも誰かに伝えたい。これがわたしの信仰なのかもしれない。

2021年7月号 掲載

『聞く耳を』

巻頭言 フェリックス・マルティネス神父

 このような状況の中で、五輪開催は「普通はない」と言ったのは、対策分科会の尾身茂会長でした。その背景には、去年の「Go Toトラベル」、年末年始の第3波、春の第4波等々の、後手として生ぬるい対策しか打ち出さない政府の諮問機関として、役割を果たせなかった批判を受けていることがあります。心身ともに疲れ果てた尾身氏自身がつい口にした厳しい言葉。
 
国会で言われたこのような発言は、何があろうとオリンピックの開催を決めている政府にとって、味方と思っていた人の裏切り行為、大迷惑。騒ぎを何とか抑えようとして、「個人的なご意見でしょう」と言い、五輪が開催された場合の感染リスクについて分科会の意見を求めないとしています。
 私は、オリンピックが開催されるべきかどうか、された場合はどのような形でされるべきかについては分かりませんが、この問題への政府の対応を見ると、不都合な意見を聞きたくない姿がはっきりと見えます。専門家の意見はコントロールができ、都合のいいことを言ってくれる間だけ。
 しかし、政府のことはここまでにするとして、神の言葉に対して、私たちも同じことをしているかもしれません。心が慰められるとき、自分が正しいことをしているように聞こえるときはいいけれども、耳の痛いことを言っているような場合は、「あれは昔のことだから」とか、「自分に当てはまらない」などと言います。または、何も聞こえないように耳を塞ぎます。
 教会の決まりなどにそのまま従わないといけないと思うときは、マタイ福音書(5.19)の「これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さなものと呼ばれる」を思い出し、都合が悪い時はマルコ福音書(2.27)の「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」の言葉を思い出します。
 同じように、褒めてもらえる時は、「この人は頭がいい」と言って時々相談に乗ってもらえるようにするが、耳の痛いことを言われるようになったら何も聞かなくなります。素直な心で、痛くても、正しいことを聞くことができるようにするにはどうしたらいいでしょうか。

2021年6月号 掲載

『三位一体の主日』

巻頭言 グエン・バン・ナン神父

 前の週、聖霊降臨のお祝いの日に、 人生において、 聖霊が一人一人の上に働いていることを、努力して 心を込めて探し、気付くようにと私たちは招かれました。

 

 聖霊は毎日愛と恵みをそそぎ、奇跡を起こして くださっています。実は、今まで私たちがしてきた ことはすべて聖霊の恵みのおかげなのです。しかし、 私たちはこのことを時々忘れてしまっています。その 結果、おごり高ぶってしまうかもしれません。大切な ことは、神の奇跡と聖霊がいつも私たちの上に働いて いることに気が付くかどうかです。

 

 この日、教会は三位一体をお祝いします。このお祝いを 通して、私たちの家庭の姿について思い巡らして みましょう。特に、きずなと愛について。三位一体とは 父と子と聖霊です。そして、三位一体は私たちの家庭の ように、父と母と子供の関係とも言えます。三人は愛で 一体となります。だから、三人はもはや別々ではなく、 一体です。この三位一体の姿は家庭の中のことのみ ならず、神と教会とキリスト者、教会と家庭と自分の 関係とも言えます。これはどう関係しているので しょうか。アダムがエバに言ったように、「ついに これこそ、私の骨、私の肉の肉。これをこそ女と呼ぼう、 まさに、男から取られたものだから。」私は、この言葉は、 夫婦と子供が互いに心を込めて、一生愛するという 意味だと思います。

 

 しかし、現代では家庭の愛が多くの問題になって います。例えば、離婚したり、互いに尊敬しなかったり、 けんかをしたり、両親を敬わなかったり、自分の両親や 子供、伴侶を見捨てることが多くなっています。これは 本当に残念なことです。このような場面に接すると、 私の心は本当に痛みます。なぜなら、母が車の事故で 亡くなった時から、私は誰かを母と呼びたくても、 できなくなったからです。

 

 私は先週福島へ行きましたが、原発の事故のために 600 人以上がなくなってしまいました。多分彼らの 家族は私と同じように悲しい気持ちだと思います。 彼らも私と同じような経験を通して、家族の愛を 大切にしているはずです。ですから、家族のために 何かできるのなら、心を込めて努力しましょう。今、 彼らが生きている間に一生懸命尽くしましょう。 あとになって、後悔しないように。

 

 愛し許すことは、口で言うことはやさしいかも しれませんが、心から行うことは本当に難しいことです。 教会と家族と周りの人を愛し許すために、たくさんの 自己犠牲が必要かもしれませんが、私たちには 選択肢がありません。彼らは私たちと一体だからです。 理由にかかわらず、教会と家族から離れたら、イエス様が 教えてくださっているように、私たちはつながって いない枝のように外に投げ捨てられて枯れるかも しれません。

 

 だから、家族を愛し許すために、苦難の時もくじけ ないで、三位一体の神に信頼しましょう。パウロ様が 教えてくださっているように、「苦難をも誇りとします。 苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むという ことを。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が 私たちの心に注がれているからです。」神は私に成功を おさめることではなく、真心をつくすように命じて いることに気付きを得られますように。アーメン。

2021年5月号 掲載

『聖ヨセフに学ぼう』

ハイメ・シスネロス神父

 5月の皆様の記憶は様々でしょう。推測してみると、ゴールデンウィークの過ごし方として、友人や家族の人と楽しめるレクリエーションがあります。また、子どもの日を迎える際の、こいのぼりが風に泳ぐ風景を眺めることも日本ではよくある光景です。国際的には、母の日の祝いがあります。母と共に食事をすることと、その際に感謝を示すプレゼントをあげるという楽しみがあります。

教会の場合、復活節が続く時期ですが、教会暦を見ると1日は労働者聖ヨセフの記念日となっています。4月の巻頭言は聖ヨセフのテーマでしたが別の観点から取り上げたいのでお読みください。

 私は「聖ヨセフの取り次ぎは適えられる」という確信を持っています。それを子どもの時に親から学びました。その祈りには聖家族の三人を合わせて、聖ヨセフ、主イエスと聖母マリアに捧げる祈りの三つの点が含まれます。『心も魂もお捧げ致します。どうか臨終の時にお守りください。平安のうちにわたしの魂が憩うことが出来ますように。』

聖ヨセフは臨終の時の保護者です。

 わたしは昨年、里帰りをした時に、96歳になった母の人生の最後の期間を側で過ごしました。体が衰えていたので、転んで怪我をしてしまいました。家で看病しながら霊的な支えとして家庭ミサをし、聖ヨセフの取次ぎを毎日のように祈りました。母にとっては大きな支えになったと思います。息苦しい時が続いた中で、その苦しみに耐えて神に信頼し、あの世に旅立ちました。聖ヨセフに心から感謝致します。

 さて、ここから教皇フランシスコの使徒的書簡『父の心で』に触れてみます。この書簡を書いた狙いについて、フランシスコはこのように述べています。書簡の目的は、『この偉大な聖人への愛を深め、その執り成しを祈り、その徳と果断な行動に倣うよう促すことです』。それを七つの特徴で描いています。聖ヨセフは①愛される父、②いつくしむ心の父、③従順な心の父、④受け入れる心の父、⑤創造的な勇気をもつ父、⑥労働者である父、⑦影に見る父です。<聖ヨセフはマリアの夫であり、イエスの父です。忠実な方>。②では、<ヨセフ様は優しい父で、その優しさによってイエスのいつくしむ心が育ちました>。⑦の『影に見る父』では、<ヨセフ様はイエスの保護をします。イエスにとってヨセフは、天の御父の地上における影です。イエスを守り保護し、その歩みを見守るため、イエスのそばを離れることはありません。>

感銘を受けた言葉をゆっくりと考えてみませんか。

2021年4月号 掲載

『聖ヨゼフの特別年にあって』

シスター 高橋由美子

福者ピオ9世が、ヨゼフを全教会の保護者であると宣言(1870)してから150年目で、今年は聖ヨゼフの特別年になります。

ご存じのように、福音書にはイエスのことを「ヨゼフの息子」と記されています。大工であったヨゼフはマリアと婚約し、お産の時には、ナザレからベトレヘムへの長い旅の後、どこにも「彼らのための場所はなかった」のでイエスは飼い葉桶で誕生、ヨゼフは父のこころをもってイエスを愛し育みました。

しかし、福音書にはヨゼフの苦悩が書かれています。

ヨゼフは、マリアの懐妊のことで深く悩まさていました。「夫ヨゼフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」(マタイ1:19)。

最初の夢では、天使がヨゼフの大きな苦しみと困惑の解決を手助けします。「このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。『ダビデの子ヨゼフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を生む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。』」(マタイ1:20~21)。ヨゼフは、瞬時のためらいもなく行動し、妻マリアを受け入れました。

2番目の夢では、「起きて、子どもとその母親を連れてエジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」(マタイ2:13)。ヨゼフは、今まで以上の苦難にもかかわらず、従うことをためらいませんでした。

3番目の夢では、安全になったので子どもと母親を連れてイスラエルの地に戻る途中「アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。『彼はナザレの人と呼ばれる』と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。」(マタイ2:22~24)。

ヨゼフは翻弄されながらも神のご計画に従い、救い主の誕生の協力者になり、イエスを父のこころをもって育てられました。

コロナ禍の中で停滞する社会生活や教会活動に不安を感じますが、ヨゼフの苦悩と重ねてこの危機を乗り越え、信仰を深めていきましょう。

2021年3月号 掲載

『灰色(グレー)な神父』

竹延真治 神父

 わたしはこどもの頃は頭痛持ちだった。頭が鉢巻きで締め付けられるようにじわじわと痛み出すのは決まって曇りの日だった。だから、朝から曇りの日はこう思った。「また、今日も曇りか…。晴れるか、雨が降るかのどちらかにしてほしい!」と。

 中年になってからは、幸いなことに若いころのようには頻繁に頭痛は起こらなくなった。それでもやはり曇りの日には「晴れか雨かのどっちかにしてほしい。中途半端は嫌だ!」と思ってしまうから不思議だ。わたしの心の中には「何事にも白黒をはっきりつけなければ」という強迫観念があるのかもしれない。

 コロナ禍に見舞われた昨今、教会の中のさまざまな決定を灰色(グレー)にしなければならなくなったように思う。以前に「ミサはカトリック信者にとって信仰生活の源泉であり、頂点です。ミサを一番大切にしてください!」と言っていたその同じ口で今度は「教会でクラスターが発生したら困ります。ミサ自体は休みませんが、過密を避けるためになるべくミサには来ないでください!」とついつい主任司祭としての本音を口にしてしまうことがある。これではまさしくわたしは“灰色(はいいろ)高官”ならぬ、“灰色(はいいろ)神父”ではないか。

 とはいうものの、“灰色の信仰”もありではないか、とわたしは自分に向かって言い訳する。「殉教をせずに踏み絵を踏んでくれた“灰色”信者がいたから、日本は250年もの間、潜伏キリシタンが存在し、信仰が受け継がれてきたのではないか!」と。 

「神父さん、最近めっきりと白髪が増えましたね。」と信者さんから言われた夜、わたしは、鏡を見ながら「髪の毛だけでなく、魂もすっかりグレーになってしまいました!」と神さまに告白した。

2021年2月号 掲載

『当たり前 』

フェリックス・マルティネス神父

 今年の年賀はがきに、「あけましておめでとうございます」の他に何か付け加えた言葉がありましたか。もしかして、「新年、恵みの多い一年でありますように」と、このような意味の言葉を書きませんでしたか。
 コロナウイルス感染のことで重たい気持ちを持ったまま新年に入ったことでしょう。本当にコロナウイルスに振り回された一年だったし、今年もまだ変わっていません。ワクチンが開発され、全員にいきわたるまでは今の不安感は続くことでしょう。
 日曜日に家族そろってどこかに出かけることや、お盆やお正月の休みを利用して実家に帰ること、毎週日曜日のミサに参加したり、ショッピングしたり、映画を見に行ったり、等々。感染拡大防止のため、今まで当たり前にできていたことができなくなったのは、気持ちの上でかなりつらいことです。
 当たり前のことを当たり前のようにできるのはなんと幸せなことだと、私は何回も考えました。日頃の平凡な生活、健康でいること、教会や仕事に気楽に通えること、毎日3回食べられること、家族そろって時間を過ごすこと等々ができることのありがたさを、何でも中止かオンラインでしないといけないことになっている中で、何回も考えました。
 コロナウイルスの危険性がなくなるまであともう少しのようです。日常の幸せを意識しながらこの一年を過ごしたいと思っています。特別なことは望みません。当たり前のことだけで充分幸せです。
 ところが、「当たり前の生活」が今の状況を生み出したとすれば、その当たり前を考え直さなければいけないように思います。科学的な根拠はないかもしれませんが、現代人類の行き過ぎが自然を怒らしたために、忠告のしるしとしてこの恐ろしいウイルスが与えられたのではないか、と思うようになりました。
 教皇フランシスコが言うように、自然に対する私たちの破壊的な「当たり前の生活」は、他人を物とする考え方の延長線にすぎません。経済的な利益やビジネスが何より大切にされることがすべての悪の根底にあります。
人や自然、損や負けのない、皆が楽しめる世界が大切にされる、当たり前の生活の実現を願いたい。

2021年1月号 掲載

『人が婚宴に来ない理由 』

グェン・バン・ナン神父

 教会が再開して、御ミサにあずかる人が増えています。今、私は心から感動し、喜びを感じています。なぜなら、御ミサにあずかり御聖体をいただくことへの飢え渇きの中に、皆さんの深い信仰を見るからです。同じように、多くの若いベトナム人たちも、御ミサにあずかりたいと、遠くから苦労してカトリック教会を探して来ています。彼らは日曜日のミサだけではなく、平日のミサにも来ています。

 皆さんも時々この教会で彼らと会っておられると思います。平日の朝7時のミサのためには、彼女たちは4時に起きなければなりません。ある人は摂津市鳥飼下から、また別の人は滋賀県から来ています。私が彼女たちを見て心から嬉しく思うのは、ベトナムの教会や家庭での習慣を日本でもよく守っているからです。ベトナムでは、平日のミサの時間はだいたい朝4時半ですが参加する人で一杯です。

 ところが、私が日本に住んで3年になりますが、その間、一度も教会に来たことがないベトナム人も多いです。私は彼らに「なぜ日曜日のミサにあまり行かないの?」と聞きました。彼らは答えました。「教会の場所が分からなかった」「日本語のミサだと何も分からない」「日曜日にお仕事を休めない」「アルバイトができるのが週末だけ」「一週間毎日働いているので、日曜日は休んで友達と遊びに行きたい」と。最初この理由を聞いた時、正しそうな理由だと思いました。しかし、よく考えたら、何かが足りないし、何かが問題だと気付きます。本当に、今日の福音(マタイ22・1-14)を思い巡らすと、宴会に招いておいても来ない人たちに彼らは似ていることに気が付きました。彼らが宴会に行かなかった理由は、一人は畑に、一人は商売に、別の人は妻を迎えに出かけてしまったからです。では、問題は何でしょうか。

 多分私たちの神様への信仰、愛、信頼が足りないのかもしれません。もし私たちに強い信仰と、まことの愛、堅い信頼があれば、難しくても苦労があっても、日曜日のミサに行くことができるでしょう。だから、教皇フランシスコが次のように教えてくださっています。「他者を動かすには技がいり、隣人のために働くには先ずそれを勉強しなければなりません。『私はできない』とか『私はふさわしくない』とか『誰も私に耳を傾けてくれない』と言ってはいけません。神様や周りの人への愛情こそが問題だと思います。この問題に打ち勝つためにはどうすれば良いでしょうか。

 聖パウロは私たちを招いています。貧しさや豊かさを気にしてはいけません。私たちを強めてくださる方のおかげで、私たちには全てが可能です。私たちの神は、ご自分の栄光の富に応じて、キリストによって、私たちに必要なものを全て満たしてくださるからです。」ということは、私たちは神様とマリア様への出会いを求め、信頼すれば、必要なものは全て与えられるはずです。

 また、皆さんご存知のように、10月はロザリオの月です。聖母マリアに出会い、ロザリオを唱え、楽しいことも嫌なことも全部分かち合い、捧げたでしょう。マリア様は神様の前に、偉大な方になりました。マリア様が願うことは神様から与えられます。マリア様のお取り次ぎによって、神様は必要な恵みを与えてくださるはずです。聖アンフォシオは告白しました。「慈しみ深い母マリア、ご保護に寄りすがって御助けを求め、母マリアの取り次ぎを願う者が、かつて誰一人捨てられたことのないことを思い出してください」と。アーメン。

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