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今月のメッセージ 2019

毎月の教会新聞に掲載している、司牧チームによる「巻頭言」の2019年のバックナンバーです。

2019年12月号 掲載

「アマゾン特別シノドス」

フェリックス・マルティネス神父

 皆さんがこの巻頭言を読む時、教皇フランシスコが日本の訪問を終え、ローマに戻っている頃でしょう。みんなにとって励ましになることを祈ります。

さて、この前の10月6日から27日までアマゾン特別シノドスが行われました。

世界中の各地域の代表司教や司祭等と80人位の専門家等が集まり南米アマゾン周辺地域について話し合って、最終文書が採択されました。

 ほぼ同時にニューヨークにある国連本部では、地球温暖化をテーマとした会議も行われ、各国の正式代表者と、関係するたくさんの国際的機関や市民団体(NGO等)の代表者が集まりました。中には、スウェーデンの少女グレタさん(16)の勇敢な話がマスメディアにクローズアップされ、まだ記憶に残っていることでしょう。

 しかし残念ながら、国連の会議では、温暖化を止めるために、皆が合意した文書の中身は薄く、あまり効果が期待できないようなものでした。それぞれの国が利害関係にあり、地球を守るより自分の国の経済を守ることが優先された結果だと言われています。

 一方、教会の特別シノドスでは、お金と関係のない立場にあるからでしょうか、中身の濃い具体的な文書が合意に至りました。この文書を通して教皇フランシスコにいくつかの提言が出されました。教皇様がこの最終文書を受け入れ、年内に発表されるであろう使徒的勧告の出発点とすることを約束しました。

 アマゾンが地球の“心臓”(“肺”と言った方がいいでしょうか)であるにもかかわらず消滅の危機にさらされている現実を前にして、教会は見て見ぬ振りができないと強く訴えられました。1.5万キロぐらいも離れている日本にとっても大いに関係する問題です。気候変動の大きな原因とされています。

 では、このシノドスでは具体的に何が言われたでしょうか。自然の調和を守ることの必要性は言うまでもありませんが、国連など、一般的にあまり扱われない提言がいくつかありました。それは、昔からアマゾンに生活している先住民に対する配慮です。私たちにとってもこの問題は大きな影響をもたらすでしょうが、先住民にとっては死活問題です。

このような提言があります。

  • 新しい「罪」の定義。エコロジーに対する罪。次の世代に対する罪であって、公害や自然の調和を壊す行動や習慣に現れる罪。

  • 教会が、先住民とその土地を犯す経済システムを非難する事。

 教会がアマゾンの住民の側に立って、彼らの権利を守る必要性に特に重点を置く事。

アマゾンの先住民のために、また地球に住んでいるすべての人のために、私たちが今の生活常識を見直す必要は欠かせない事です。

夏の記録的な暑さ、珍しいことではなくなった大型台風の上陸などに対して悲鳴を上げない人はいないでしょう。教皇様が言うように“人類の家”であるこの地球の自然の調和を壊している私たちの生活スタイルを変えない限り、この問題の解決はないと言われますが、いつになったら私たちにできることを行動に移すのでしょうか。

2019年11月号 掲載

「皆さんを通して神様は恵みと憐れみをたくさん注いでくださった」

ナン 神父

 昌川神父さんからの写真で見ていただいたように、皆さんのお祈りのおかげで、私はフィリピンで司祭叙階、ベトナムですばらしい初ミサのお祝いをしていただきました。本当に幸せです。私が幸せだと思うのは、あちらこちらでパーティーとお祝いをしていただいたからではなく、皆さんに愛されていると感じたからです。本当に、私が神父になれたのは自分の力ではなく、皆さんを通して、神様が私に愛と憐れみと恵みをたくさん注いでくださっているからです。

 私は二年前に今市教会に来ました。大変なことがたくさんあったことをよく覚えています。日本語ができなかったし、クラレチアンの兄弟は私の気持ちを分からないし…です。例えば、私の上司は私に「ナンさん、もし六月までに日本語が上手にならなかったら、フィリピンへ戻りなさい。」と言いました。この言葉を聞いたとき、私は本当に悲しくなって、日本への召命を一時は諦めかけました。

 しかし、神様が皆さんに愛を送ってくださって、皆さんが私をいつも愛してくださり、祈ってくださり、応援してくださったおかげで、私は「労なくして得るものなし」という言葉に気がつきました。本当に、私は、皆さんのおかげで、詩篇者が言っている通り、「神は貧しい人を立ち上がらせ、支配者とともに座らせます。」ということを実感しています。つまり、皆さんはイエス様によく従っています。皆さんはイエス様のように、私のために、富んでおられたのに貧しくなられた、私がキリストや皆さんの貧しさによって、富むように。心から感謝の気持ちでいっぱいです。本当にありがとうございます。

 また、私が神様と皆さんの愛をふさわしく受けとり、忠実な神の管理人になれるかどうかは、皆さんのお祈り、愛、支えにかかっています。皆さんも神様の管理人です。そして、今日のみ言葉で、教会は私たちを招いています。「不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば金がなくなったとき、私たちは永遠の住いに迎え入れられます。」この富やお金とは、おたがいに愛と相手への関心を持ち、分かち合い、許すことです。

 皆さん、お願いがあります。二人の主人に仕えることを避けるためには、どうすれば、良いでしょうか。一人一人自分に問いかけて下さい。アーメン。

2019年10月号 掲載

「喜び・祈り・感謝」

ハイメ シスネロス 神父

しろきたブロックの協力司祭の任命を受けて5ヶ月となりました。わたくしにとって、皆さん方に出会い、互いの霊的な成長を磨くことが出来ることは嬉しいことです。

さて、今日わたくしのメッセージの土台となる聖句は、次の気に入った個所です。『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト.イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。』(テサロニケの信徒への手紙一、5:16-18)皆様がよくご存じの言葉ですが、敢えて触れることにしました。読書と祈りの手段にしてくだされば幸いです。部分毎に短い説を加えてみます。

一つ目の部分、『いつも喜んでいなさい』。『喜び』がテーマですが、質に関しては、単なる人間的な喜びではなく、聖霊の実である喜びであり、それを願い求める必要があります。すなわち、人間が経験するあらゆる寂しさや涙ぐみの感情を超えるように力が注がれていること、また周りの人々に対して喜ばせる務めが出来ることの外に、『本当の喜び』のもとは、神であり、主イエス・キリストの福音を知ることです。貴重な賜物ですね。

二つ目の部分、『絶えず祈りなさい』。ここでは祈りの学びがあります。『絶えず』とありますが、その意味合いは、休まず、忘れることなく、呼吸しながら生きているように、祈りながら生きることを目標にするという様に理解されます。祈りには過程があり、口で述べる願いがあれば、静かな祈りもあります。祈りを深めて行く中で、聖霊に素直になって、祈りと言う発想より祈らされているという実感の方が合っている歩みといえるでしょう。そのため、主が共にいて下さるとの確信は欠かせないものです。

三つ目の部分、『どんなことにも感謝しなさい』。これは感謝の精神です。『ありがとう』のことばを子どもの時から学んだように、祈りの形で『神に感謝』と言う心を育てる学びです。小さい出来事や出会いにおいても、喜ばしいこと、辛いことがあっても感謝します。健康の時も病を背負う時も感謝します。

み言葉は神の望みであり、神からの語りかけであります。答えてみませんか。

2019年9月号 掲載
シスター 高橋由美子

「お荷物」

 若松英輔さんの『言葉の羅針盤』には「人生の海にいると方角が分からなくなることがある。地図を持たない旅人のようになる。そうした時、私たちを助けてくれるのが言葉だ。」とあるが、「座右の銘」も、自分の励ましや戒めとする言葉のことで、 生き方や仕事に対する姿勢や方向性、価値観などのベースになるものといえます。キリスト者にとっては言うまでもなく、み言葉といえるのではないでしょうか。

 修道会に入会して共同生活を始めたころ、それぞれの個性がぶつかりあって、いつもギクシャクしていました。なんでこの人と一緒に生活をしなければならないのか不思議でした。そのような時、養成担当者に「神様が送ってくださった姉妹なのですよ」と言われて理解できないまま納得させられました。それでも、あの姉妹は「お荷物だ」という思いが消えませんでした。年月が経過し、経験を重ねていくと修道共同体は超高齢化社会という現象にみまわれるようになりました。介護が必要になった姉妹、見守りが必要になった姉妹を時にお荷物と受け止めることがありました。しかし、姉妹がお荷物ではなく、この私がお荷物ではないかと、出来事の奥に働かれる主の想いに気づかされるようになりました。

 介護施設を訪問すると、多くの記憶を失った方が「あっシスター」と言って一瞬信仰生活を思い出されることがあります。司祭と主の祈りを唱えた時、涙を流されたという体験も聞きました。霊的な能力が刺激を受けてよみがえっているのでしょうか。

 今からでも、聖書のいろいろな言葉や場面を自分の中に取り入れて、「キリストとこの現実を分かち合い」霊的な能力を豊かにしていきませんか。

 み言葉は人生の危機を生き延びるに十分な方向性を持っていますので、自分の弱さや不完全な部分、変えられないこと、限りある事を教会共同体とともに受け入れて歩んでいこうではありませんか。

2019年8月号 掲載

「愛おしくてたまらない!」

竹延 真治 神父

 神学生のころ、司祭になってからの自分の姿を想像する時、ミサをささげたり、ゆるしの秘跡を聞いたり、洗礼を授けたりする自分は、空想できた。しかし葬儀を司式する自分の姿は一度も思い浮かべたことがない。葬儀は自分にとっては想定外の務めだったのだだが、教会構成人口の高齢化とともに若いころには想定外だったこの奉仕が最近とみに増えてきた。

先日、何十年ぶりに高校の同窓会に出てみると、すでに何人かの同級生が鬼籍に入っているのを知った。その後、教会でお葬式を司式するたびに、この次のお葬式は自分であっても不思議ではないと思うようになった。そして、自分のお葬式のことを空想し始めたどこの教会でどの神父がわたしの葬儀を司式し、説教は誰がするのであろうか。

葬儀を司式中に祭壇から棺に目をやると、御棺に入っているのは亡くなった教会の信者さんではなく自分自身が棺の中に入っているような気持ちになることがある。火葬場に着いても、自分の時はどこの火葬場で何番目の炉で燃やされるのだろうかと思ってしまう。

まだまだ、死にたくない。美味しいものを食べたいし道ですれ違ったきれいな女性に心を惹かれてしまうのは若いころと何ら変わりがない。煩悩を静めたり悟りに至ったりというような修業はまったく行ったことがないのだ。にもかかわらず、棺に収まっている自分を空想したり、火葬場で焼かれる炉を思い浮かべるとき、急に人間が皆、愛おしく思えてくる。

教会のあの人もこの人も、好きな人もきらいな人も、みんな近いうちに御棺に入り、遠からず火葬場で焼かれるのだと思うと、不思議と人を憎めなくなってしまう

わたしたちは皆、同時代を生きているのだ、そして同時代を死んでゆくのだ。イエスの死と復活に自分も与りたいというキリスト教の信仰はもちろん大切だ。

しかし、自分の死を想うとき、人間皆が急に愛おしく思えるというのも信仰の賜物ではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

                                                       

                                                       『聖母被昇天』、ルーベンス画、1616 年 - 1618 年、クンストパラスト美術館収蔵(画像は Wikipedia より)

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2019年7月号 掲載

「ジコチュウ」

フェリックス・マルティネス神父

 以前今市にいた10年間、教会の新聞の巻頭言を断り続けていたのですが、今回は主任司祭の大忙しさを鑑みると、逃げることができませんでした。これから時々ですが、皆さんの忍耐を試すことになります。私のつまらない文章をおゆるし下さい。

今の政治の世界を見ますと、数年前から一つの大きい変化が目立つようになっています。それは、ナショナリズムと呼ばれる現象が力強く成長していることです。トランプの米国を始め、EUから離脱するイギリスやフランス、イタリア、ギリシャ、ブラジルやインド、日本等々の例が挙げられます。

 ウィキペディアによると、ナショナリズムとは、「国家という、統一、独立した共同体を、一般的には自己の所属する民族のもとに形成される政治思想や運動を指す用語。日本語では内容や解釈により、国家主義、国民主義、国粋主義、民族主義などとも訳されている。」だそうです。

 経済や教育、社会保障のことについて各国のナショナリズムの政党の考えは異なりますが、自国の事を第一に考える以外、唯一の共通点は、移民拒絶の考え方しかないように思います。

国を超えて自由貿易を中心とした経済が、その恩恵の外にはみ出された人をあまりにも多く作り出した結果だ、とも言われていますが、どちらの極端もよくないとの結論が出せます。

 昔は、ジコチュウという言葉をよく聞きました。自分の事しか考えない人のことを虫に例えての表現(自己虫)。虫なのか、ウィルスなのかよく分かりませんが、かなり伝染性の強い病気のようです。

 教皇フランシスコはこの動きに対する反対を声を高くしてはっきりと打ち出していますが、なかなか難しい戦いです。個人的なレベルでも、国際的なレベルでも、人と人との間には壁ではなく橋をつくりましょうと、繰り返し呼び掛けています。

 最後に、この前の聖霊降臨のミサでとなえられた共同祈願の一つを書いておきたいと思います。「一つの地球にともに生きている人々が、民族や文化の多様性を互いに受け入れ、大切にしながら、良い交わりを築くことができますように。」

 

2019年6月号 掲載

「喜びのうちに派遣され」

ナン助祭

宣教師にとって一番嬉しいことは、使命のために、他の国に派遣されることです。神様のあふれる愛によって、当時クラレチアン会の総長だったヨゼフ・アベイヤ司教様は神学生の私を選び、日本に送ってくださいました。私にとって、日本は世界で一番きれいで治安のよい国です。また、日本の方はとても優しいので、日本に派遣され、私は本当に感謝の気持ちいっぱいで嬉しかったです。

しかし、それからの私にとっての大問題は、日本語がとても難しいことでした。実は数カ月日本語を勉強した後、髪がたくさん白くなりましたが、なかなか上手になりませんでした。このため、日本への召命を一時は諦めかけました。フィリピン管区に戻るかどうかを考えていた時、私の心に御言葉が浮かびました。「イエスについて来たいものは自分を捨て、日々、自分の十字架をせおってイエスに従いなさい」(ルカ9:23)。この御言葉を通して、私は自分にとって楽しいこと、楽なことのためではなく、皆さまの幸せを探すために日本に来たことに気付かされました。そして、皆様への愛情のために苦しむことは、私の喜びになると思いました。

私は今、司祭叙階を願っております。まだ日本語が下手ですので、神父になったら、もっと大変になるかもしれません。しかし、キリストへの愛に駆り立てられているので、私は神父以外のことはできません。また、神様や皆様の愛と支えに信頼しているので、心配はしていません。本当に、皆様の支えと祈りがあってこそ、私の夢は現実になると思います。

皆様、教会への愛を大切に、苦しい経験をする時も諦めないで、共に一生懸命頑張ろうではありませんか。試練に直面するたびに、私達もペトロのように、イエス様が私達一人一人に聞いておられる「何々さん!私(イエス様)を愛しているか」の言葉を思い出しましょう。

 

2019年5月号 掲載

「身辺整理をしながら」

シスター 高橋由美子

昨年3月に関目修道院を閉鎖し、香里修道院に引っ越しをしたことはお伝えしましたが、いかにむだなモノに囲まれて生活していたかを痛感し、ここでも身辺整理を始めました。香里修道院は創設70年以上になるので、物置には、寝具、家具、壊れかかった電気製品、使用しない扇風機、食器、書籍などが山積されていました。

 

ゴミ屋敷という言葉が当たり前に使われていますが、最近、ヨガ行法がもとになっているという「断捨離」をテーマに、物との関係を断ち切る術の本が出ています。消費文化である一方、「もったいない」「もったいない」でたまったモノをいかに効率よく整理整頓するか「収納術・片づけ術」について書かれています。モノが負担になりその重圧から解き放たれることを望む心からの発想ではないでしょうか。

 

だいぶ前に、マザーテレサの生涯を紹介するテレビ番組がありました。神の愛の宣教会のシスターたちに、ヨーロッパの古いアパートが寄付されましたが、そこにはアンティークな家具や絨毯、食器、絵画がありました。これらのものを窓から次々に放り投げる場面にナレーターは、マザーたちの生活には必要ないからと説明されていました。「まだ使えるのに」「もったいない」「いったいどうするのかしら」と思いめぐらしながら、モノに使われるのではなく、神との関係を軸にした「清貧の誓願」の生き方があるのではないかと気づかされました。

 

「もったいない」という葛藤を抱きながら、多くのモノを捨てることは、マザーテレサの修道会のシスターたちが立派な家具を捨てたのと同じで、そこには神との関係を深くするために、モノやさまざまのこだわりから自由になる、モノを超えた世界があるのではないでしょうか。消費社会の中でモノに囲まれて生活している私には、まだ充分に解放されていない課題ですが、質素に、簡素に生活する工夫を培い、自由な心で「清貧の誓願」を生きることができればとチャレンジしています。

2019年4月号 掲載

「改心と回心」

竹延真治神父

わたしが助祭の実習をさせていただいた教会の主任神父様は、司祭叙階に際し、祭服やストラなどを信者さんに頼んで仕立ててくださり、花嫁道具のようにわたしに持たせてくださった。遠方の教区で重責ある立場におられ、所用のため叙階式に来てくださることはできなかったので、叙階後、わたしが挨拶にうかがった。「何かアドバイスを頂けますか?」、とお願いしたところ、「今より悪くならないように!とわたしは子供たちにいつも言っています。」とだけおっしゃった。その神父様は、少年院や少年鑑別所から暴走族の少年を教会に引き取り、司祭館で共同生活をされていた。当時のわたしは、“あの暴走族の少年たちとわたしを一緒にするとは!もっとレベルの高いはなむけの言葉をいただきたいものだ。”と心の中で思った。

 還暦を過ぎた今、あの神父様がおっしゃった“今より悪くならない”ことがどんなに人間にとって大変なことかが身に染みてわかるようになった。

少年時代のわたしは、神父様方を尊敬してやまない母に対して、「あの神父はかっとなって信者さんを叱りつけていた。」「あの神父は煙草を吸って、酒を飲んでいた。」などと報告し、母が困惑する顔を見て喜んでいたのだった。ところが、今の自分の神父としての生きざまを見てみると、少年の頃非難した神父様方よりよほどひどいのではないかと思う。

“今よりもっと良い人間になろう。”という決心を“改心”と言う。この“改心”はうまくいかないどころか真逆の結果さえもたらすことがある。減量しようとダイエットを始めたのに、やせるどころか逆に太ってしまった、という体験をした人は結構多いと思う。自分の力は全くあてにはならない。

 もう、自分の力では無理です。神様以外にわたしを救える方はおられません。とわたし自身を神様に明け渡すことをキリスト教の用語で“回心”と言う。無力な姿で十字架に付けられ、復活されたイエスにわたしたち自身を委ねるという“回心”の季節をわたしたちは今、過ごしています。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしのうちに生きておられるのです。」(使徒パウロのガラテヤの信徒への手紙2章20節)

2019年3月号 掲載

荒れ野で見出す

昌川信雄 神父

 『5回と30分の法則』(認知症者と毎日関わる家族が、繰り返す相手の話を聞いてあげられる忍耐許容限度は5回まで。また徘徊に連れ添ってあげる許容時間は30分まで。それ以上の忍耐は体の機能を破壊する。)という、ある神経科医の分析を書物で見ました。

 愛のある人は、いかなる苦難にも善意で関わろうとしますが、それも受け止める機能が壊れれば、人はその人でなくなり、善意も思わぬ衝動にとって代わる危険性が生じるということでしょうか。一人息子が母親を窓から突き落とした事件。同棲相手の機嫌を鎮めるためには、この子がいなくなるしかないと思い詰めて、橋の欄干から二歳児を落として家路についた母親の事件。外部に助けを求めたわが子を執拗に虐待し、死に追いやった父親の事件。数え上げれば枚挙にいとまないこれらの非人間的事件は、あるべき人間の機能が喪失した結果と言うべきなのでしょうか。被害者の不幸は言うまでもなく、加害者をここまで追い詰めていく得体のしれない闇にこそ今、急を要して救いを必要としている現実があるようです。「神が存在するならなぜこんな不幸が」という逆切れにも似た訴えを耳にしますが、不幸は全て人類が神の心を生きていないことから生じているのです。私たちが神を不幸にしているという現実こそ、むしろ知ってほしいと神は願っておられるでしょう。

 親を幸せにしてあげるように、神に喜んでもらう唯一の道は、私たちがみんな聖霊の導きに身をゆだねて『霊の人』になることです。そのため神はかつてエジプトから解放した民を40年間荒れ野の生活に導いて、すべての虚飾が取り去られて本質だけが見えてくる世界で、神を唯一の支えにする『神中心主義の人』に育てようとしたのでした。

 イエス様が世に来られたのは、イスラエルの民が実現しなかった生き方を私たちに引き継がせ成就させるためでした。これから迎える『四旬節』は私たちにとってイエス様の荒れ野の40日の追体験です。私たちキリスト者は世の『荒れ野でイエス様を見出す』のです。

2019年2月号 掲載

老いの霊性

シスター  高橋由美子

昨年は自然災害が相次ぎました。強風、豪雨、地震で大地が揺れ、尊い命が奪われました。教会は高齢者が活躍していますが、老いと向き合いながらキリストからいただいた命を、最期までどのように生きることが求められているのでしょうか。

 

ある介護施設に観想修道会のシスターが入所しましたが、施設の職員はシスターのところに行って癒されていたと聞きました。観想修道会は、基本的に修道院の中だけで祈りと観想、労働を中心とした生活を送り外的な活動にかかわりません。祈りと労働の日々の中で、神のみことばを黙想し神さまを証しする生活を送ってきました。シスターは老いて共同生活ができなくなり施設に入所しましたが、それまでと同じように神のみことばを黙想し、存在そのもので神を証ししていたので、職員を慰め、癒すことができたのではないでしょうか。

 

わたしたちは、家庭、教会、地域、社会の中で仕事や奉仕活動によって自分の使命を確認し充実感を味わってきました。社会でも若くて活動的で多くの仕事をこなせることが賞賛されてきました。しかし、老いと向き合うことによって、身体的にあちこちに痛みを覚え、慢性疾患もあり、以前ほど活発でなくなります。物忘れも激しく、特に人の名前を忘れることが多くなります。認知症の兆候が現れる人もいるでしょう。

 

かつて行っていた活動ができなくなったとき、現状逃避の手段としてテレビや病院通いに行き着いてしまうこともありますが、不安や寂しさを沈黙と静けさに浄化されることによって、やがて、その寂しさは孤独へと変えられるでしょう。忙し病から自由になり、より孤独な時間を大切にし、山に退いて祈るイエスと共に、あるがままの存在を受けとめることが、老いの生き方に求められているのではないでしょうか。

2019年1月号 掲載

「急いでたすけにきてください!」

竹延真治 神父

昨年11月の終わりに酒井俊弘司教様をお招きして枚方教会で大阪教区のカトリックボーイスカウト・ガールスカウトの合同ミサが行われた。テーマは、スカウト活動の創始者でイギリスのベーデン・パウエル卿が大切にしたモットーである“そなえよつねに!(Be prepared!)”であった。酒井司教様は、その日に読まれた福音、“いつも目を覚ましていなさい”の実践の秘訣として、「今日自分ができることを明日まで引き延ばしてはいけません。」と説教で話された。わたしには耳が痛い話だ。現にわたしは、この原稿をインドネシアに向かう飛行機を待つ間に関空の待合室で書いている。締切日は一週間前に過ぎているというのに。

12月の初めには大東教会でヨゼフ・アベイヤ司教様に来ていただいて、グエン・バン・ナン神学生の助祭叙階式が行われた。司教様の前でナンさんはいくつかの誓いを立てた。その誓いの質問はわたしを震撼とさせるものばかりだ。

福音についての司教の勧めの言葉に、「あなたは読んだことを信じ、信じたことを伝え、伝えたことを行いなさい。」というものがあった。わたしは信者さんにミサや集会で説教するばかりで、福音を信じて生きてもいないし、伝えてもいない。ましてや実行なんか全くしていないではないか。

「あなたは毎日教会の祈りを唱えますか?」と司教に聞かれて、「はい唱えます」わたしも助祭に叙階される前に誓ったはずだ。今、これを書いていて思い出した。旅行荷物の中に教会の祈り(聖務日祷)を入れるのを忘れているではないか!何ひとつ誓ったことを守っていない大嘘つきの万年オオカミ少年のわたしがいる。

教会の祈りの冒頭の句は、“神よわたしを力づけ、急いで助けにきてください。”駄目神父のわたしだが、でも、だからこそ“急いで助けにきてください!”としつこく神さまにお願いしなければならないのだろう。搭乗を促すシンガポール行きの飛行機のアナウンスが聞こえてきた。では!

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