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河内キリシタン
四條畷市砂にある妙法寺 このあたりに砂の教会があったようだ
竹延神父の河内キリシタン逍遥記
第9話
「たとえ災難に遭おうとも、たとえ死が訪れようとも!」
―ゆるぎない信仰で結ばれた砂・岡山の結城(ゆうき)一族―
親の仕事を継ぐために必要な専門教育や研修を受けたのに、責任者となるのが怖くて父の経営する養豚場から逃げ出したわたしにとって、越後の禅僧・良寛さんはとても親しみがもてる人だ。橘屋という佐渡へ渡る廻船を扱う名主の跡取り息子に生まれた良寛は、父の仕事を継ぐことに抵抗を感じ、突然出奔・家出する。その良寛和尚の晩年の言葉に“災難に逢う時節には災難に逢うがよく候(そうろう)、死ぬ時節には死ぬがよく候、これはこれ災難をのがるる妙法にて候”というのがある。河内には数千名のキリシタンが存在したと言われているが、河内での信仰生活が保障されたのは20年くらいしかなかった。当時のほとんどすべてのキリスト信者に現代のわたしたちには考えられない過酷な苦難や死が訪れるのだ。
このシリーズ第6話で河内キリシタンの棟梁とも言うべきサンチョ三箇頼照(さんがよりてる)のことを述べた。しかし、三箇サンチョを含む三好長慶の部下73名が1564年にヴィレラ神父から洗礼を受けたのは結城左衛門尉(ゆうきさえもんのじょう)の功績によるところが大きい。前年に父の結城山城守忠正(やましろのかみただまさ)が、上司の松永久秀から“キリシタン弾圧”のための下調べを命じられたのだが、日本の諸宗教に通じているはずの忠正はディエゴというまだ洗礼を受けてまもない若者と話しをするうちに逆にキリスト教に引き込まれてしまう。そして、おなじく久秀からキリシタン調査を依頼された神道や朝廷の祭儀にくわしい清原枝賢(きよはらのしがかた)とともに奈良の多聞城で洗礼を受けることになった。
1563年の奈良での洗礼式に結城忠正は自分の息子の結城左衛門尉を伴い、ヴィレラ神父より息子とともに洗礼を受けた。息子の左衛門尉は、飯盛山城の主である三好長慶に仕え、山麓の岡山と隣接する砂(岡山・砂も現在の四條畷市)に領地をもらっていた。この、結城左衛門尉が飯盛山城に出仕した時に、自分が洗礼を受けたことのすばらしさを同僚の武士たちに吹聴するものだから、他の武士たちも一度バテレン(神父)の話を聴いてみようということになった。バテレン・ヴィレラの前に堺から派遣されて来たのが、山口でザビエルより洗礼を受けた元琵琶法師の修道士ロレンソ了斎だった。了斎は飯盛山城で武士たちに説教をし、武士たちは魅了され、73名が飯盛山で洗礼を受けた。
多数の同僚をキリシタンに改宗させるきっかけを作った人物、結城左衛門尉(洗礼名アンタン)は自宅のある砂に教会堂を建てた。しかしながら、間もなく彼の財産をねらう者から毒殺されてしまう。彼は生前から、自分の命はそう長くないことを周りの人々に話していたという。その葬儀には1万人以上もの人が参列したとフロイス神父は伝える。父であるアンタン左衛門尉の後を継いで砂・岡山の領主のなったのはまだ幼い結城ジョアンであった。ジョアンには、叔父のジョルジ結城弥平次が後見人に付いた。領主ジョアンと後見人ジョルジ弥平次によって町のシンボルとなるような大きな十字架が(おそらく現在の忍陵神社付近に)建てられ、大きくて美しい教会が(おそらく砂の寺内に)建てられ、十字架と教会を結ぶまっすぐな道をつけるために、数件の家が撤去されたことが宣教師たちの手紙には載せられている。
その後成人した結城ジョアンは、1582年の本能寺の変の後、織田信長に代わって天下を取ろうとする豊臣秀吉側に味方する。同じ河内キリシタンの三箇一族は天王山の戦いで明智光秀側に付いたため、その領地は秀吉によって没収され、三箇領は結城ジョアンに与えられることとなった。しかしながら、二年後の1584年に豊臣秀吉が徳川家康に対して仕掛けた小牧長久手の戦いで再びジョアンは秀吉軍として出陣し、そこで討ち死にを遂げる。河内キリシタンの立役者、結城左衛門尉とジョアン親子は二人とも不慮の死により早世する。その後、砂・岡山が秀吉によって異教徒の領主に分け与えられ、砂の教会が破壊されるのを憂慮した高山右近や結城弥平次は、秀吉に願い出て砂の教会を大坂城内の新しい土地に移築する。この砂・岡山の地にあった教会が移転してできたいわゆる“大阪教会”が蒲生氏郷、黒田官兵衛などのキリシタン大名や細川ガラシアを洗礼に導くことになる。
わたしたち現在のクリスチャンは、「戦国時代のキリシタンはキリスト教のことなど何も知らないで促成栽培でクリスチャンになったに違いない。」と思う。ところが、キリシタン研究家でもある故溝部脩司教は「そうではない。当時のキリシタンは信徒であっても“イグナチオの霊操”を行うなど、むしろわたしたちよりも霊性が深かったかもしれない。」と語っておられた。それを聞いたわたしは、イエズス会の創始者、イグナチオ・ロヨラの霊操の中にこういう祈りの訓練があったのを思いだした。祈りの中で、神からこの世に命を受ける前の自分を思い浮かべる。そして、深い対話のうちに神の前にこう答える。「これから派遣されて行く人間の世界で、長寿であるか、短命であるかをわたしの方では選びません。あなたが命じられた方を生きます。健康か病弱かもわたしは選びません。あなたがわたしにくださった身体でわたしは喜んで生きます。」と祈りの中で神さまに答えるのだ。
今の時代ならイエズス会員が初期養成の中でかならず数度は経験するイグナチオの霊操の訓練を、イエズス会がまだ若かったころとは言え、ヴィレラ神父やロレンソ了斎修道士が受けなかったはずはない。それだとしたら、彼らから信仰の手ほどきを受けた河内のキリシタンが、災難に遭っても、死と出会っても、“喜んでいただきます”というような実践的な信仰を身につけていたとしても不思議ではない。良寛さんを慕い、河内キリシタンを見倣いたいわたしだが、彼らの信仰が遥か彼方を行っていたことを知ると、「自分には無理だ」とあきらめてしまいそうになる。