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河内キリシタン

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フロイス神父の記念碑(長崎市西坂)

竹延神父の河内キリシタン逍遥記 

第8話

「この宣教師がいたから河内キリシタンの記録が残った」

―日本を愛した稀代の記録魔ルイス・フロイス神父―

 

 わたしの所属する修道会(クラレチアン宣教会)は日本では会員が15名ほどの小さい修道会だが、この中から司教が任命された。現在、福岡にいるヨゼフ・アベイヤ司教だ。彼は、昨年行われたクラレチアン宣教会の司祭叙階式の挨拶でベトナム出身の新司祭につぎのようなはなむけの言葉を贈っていた。“日本に派遣された宣教師は日本と日本人を愛してください!”。アベイヤ司教は以前、「宣教とは人を愛することだ。」とも以前言っておられた。人を愛することが宣教だったら、日本にいる宣教師が日本人を愛さなかったら、全く日本に来た意味がなくなるわけである。

 フランシスコ・ザビエルは1549年に来日したが、わずか三年間しか日本に留まらなかった。しかしながらザビエルが日本を去ってわずか十数年後の1563年に、それはちょうど河内・飯盛山で73名の武将がガスパル・ヴィレラ神父から洗礼を授けられた頃でもあるが、マカオを立ったポルトガル船が横瀬浦(長崎県西海市)に入港した。その船に乗っていたのが若干32歳のルイス・フロイス神父だ。フロイス神父はポルトガルのリスボンで1532年に生まれる。若くして務めた宮廷の秘書の仕事を17歳で辞め、イエズス会に入会する。インドのゴアで養成を受け、1561年司祭に叙階された。フロイス神父が上陸した横瀬浦港はイエズス会が自ら開き所有する港だったが、開港後わずか1年で焼き討ちに会い、フロイス神父らは平戸沖の離島、度島(たくしま)に避難する。ともにこの島に逃れてきたイエズス会員の一人が、ザビエルといっしょに来日し、日本語が堪能だったスペイン人のファン・フェルナンデス修道士だった。フロイスは度島滞在期間中にフェルナンデスから日本語の手ほどきを受ける。その後フロイスは1565年から1577年まで京都や堺などのいわゆる上(かみ)に拠点を置き宣教を行う。京都に来てまだ日が浅いのに、キリシタン嫌いの松永久秀の訴えで正親町(おうぎまち)天皇から出されたバテレン追放令により、京都を追われ、堺に避難する途中に河内の三箇で先輩のビィレラ神父と合流し、7~8日三箇の教会に滞在したことが彼の書簡に記されている。ビィレラ神父は1565年に、九州にいシたイエズス会布教長のコスメ・デ・トルレス神父(彼もサビエルとともに来日した第一陣の宣教師)により豊後(大分県)への転属を命じられ、上方に残る神父はフロイス神父ただ一人となる。日本語の達者なビィレラ神父が去った後、フロイスは京都に南蛮寺を築き、織田信長とも数度にわたり謁見がかなう。このフロイスが、何度も訪れた三箇のことや河内キリシタンのことを書簡や『日本史』に詳しく書いてくれたからわたししたちは河内にキリシタンがいたことを知ることができるのだ。その後の徳川幕府の厳しい禁教令によりすべてのキリスト教の書物や事物は抹消され、河内キリシタンのことを記した日本語の文献はほとんど存在しない。

 フロイス神父の悪癖(それは愛すべき癖でもあるのだが・・・)は、いったんペンを握ったら最期、ペンが独り歩きをして止まらぬこと。イエズス会に入るまではポルトガル王室の書記見習いのような仕事をしていた彼は、もともと文才があったのだろう。1583年には、イエズス会総長から、すでにザビエル来日後30数年が経っているイエズス会の日本宣教の歴史についての年代順報告書を作成するように命令を受ける。これが、フロイスの『日本史』とわたしたちが呼んでいる書物である。フロイスは見たこと、聞いたことを正確に文章にするという才能に恵まれていたため彼の報告書の分量は膨大となってしまった。総長から日本に派遣された巡察師バリニャーノ神父は1592年、視察を終えて帰国する際にフロイス神父をマカオまで同行させ、その進捗状況を点検した。バリニャーノ師はフロイスの『日本史』の内容が詳細すぎるため、日本のことを良く知る人には興味深い内容だが、そうではないその他大勢の世界各地の人には冗長すぎて読んではもらえないと判断した。そこで、フロイスに報告書を削減・要約して書き直すように要求したのだが、彼はこれに応じなかった。フロイス神父は、日本人の人間性に興味を持ち、観察してそれを詳細に書き記す価値があると判断してそれらを記したのであろうから、削除することは彼の良心が許さなかったのかもしれない。このため、『日本史』は報告書としてローマの総本部には送られず、フロイス神父は原稿を携えて失意のうちに日本に戻ることになった。

 フロイス神父は1597年に長崎で亡くなるまで『日本史』を書き続けた。彼の死後、日本でのキリシタン弾圧が強まると『日本史』は、マカオにあるイエズス会の聖パウロ天主堂の文書館に移送の上、保管されるが、1835年の火災で聖パウロ天主堂はファサード(前壁)と石段を残して焼失してしまい、『日本史』の原稿もすべて失われた。幸いなことに、火災の1世紀ほど前にポルトガル政府により写本がマカオから本国に持ち出されていた。このポルトガルに持ち帰られた『日本史』の写本は一部が行方不明であったのだが、そのすべてが発見されたのはポルトガル留学中の京都外国語大学ポルトガル語学科教授の川崎桃太(ももた)氏によってである。南蛮学者の松田毅一氏との共訳でフロイスの『日本史』全12巻が出版されたのは発見から10年が過ぎた1985年のことである。あの、名前だけはだれでも知っているフロイスの『日本史』が読めるようになったのは(わたしたち一般人だけでなく専門家でさえ!)意外と最近のことであるのに驚く。

 わがクラレチアン会も修道会の端くれ、組織の運営方法は同じカトリックの教会法に定めれているので中世のイエズス会と比べてもそう変わらないと思う。少なくとも6年に一回の総長あるいは総長代理(400年前にフロイスに日本史の簡潔化を命じた巡察師のバリニャーノ神父もこれにあたるのだろう)の公式訪問(canonical visit)の時、わたしが総長や彼の代理からいつも言われたのは、「もっと記録をしっかりと残しなさい」というものだった。今やっている活動や修道会の会議をこなすのにせいいっぱいのわたしは、修道会内の議事録や報告書、日報等を作成する余裕がなく、怠りがちだったのだ。

 修道会の記録不備のことで総長やその代理から注意を受けた時に、思い出したのは記録魔フロイス神父のことだった。「ああ、フロイス神父のような文章能力があったら、自分もさらさらと報告書が書けるのに!」しかしながら、フロイス神父が今生きていたらきっとわたしにこう言うに違いない。「あなたに足りないのは文章能力ではなく、人々への愛ですよ!」と。フロイス神父の日本に対するあふれるほどの愛が、フロイス神父のペンを動かしたのに違いない。わずかな河内での滞在期間であったであろうに、愛すべき河内キリシタンと宣教師たちのたくさんの物語を『日本史』の中に残してくれたルイス・フロイス神父に感謝!わたしは、フロイス神父に言いたい。「あなたも日本人を愛してくれたけど、あなたほど日本人に愛され宣教師もあまりいないですよ。」と。


 

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ポルトガル領時代のマカオで発行されたフロイス神父没後400年の記念切手

(左は信長に謁見するフロイス、右はマカオ聖パウロ教会とフロイス)

マカオ聖パウロ天主堂跡ファサード(正面壁)『日本史』が収蔵されていた後方の聖パウロ学院は焼失

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