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河内キリシタン

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河内キリシタン祈念祭(飯盛山麓“信愛の森”)

竹延神父の河内キリシタン逍遥記 

第7話

「河内キリシタンのゆりかごで育てられた人々 その1」

―三箇アントニオと妻マグダレナ―

 

わたしはカトリック教会の一司祭だが、同僚の神父、先輩・後輩の神父さんたちを観察してみて、マザコンでない神父を知らない。カトリックの神父は独身が義務だから、女性に傾倒することが許されているのは自分の母と聖母マリアくらいしかいないからかもしれない。このわたしもマザコン神父の一人だ。わたしの母は、カトリック教会を非常に愛していた。今いる修道会にわたしが入会したのも、突き詰めて考えたら、母がこのクラレチアン宣教会という修道会の神父たちが大好きだったからだと思う。母は、長い闘病生活の後、59歳で亡くなった。最期の日々、飯盛山の麓、大東市北条の地にカトリック大東教会が建つのを今か今かと待ちわびていた。母は病状が悪化し、大東教会のミサには一度も与れないまま亡くなったが、幸いお葬式は彼女の念願通りここで挙げてもらうことができた。

 30年後の今、「ああ、もし母が参加することができたら、どんなに喜ぶだろうか!」という大東教会の礼拝がある。毎年秋に飯盛山の直下、『信愛の森』を会場に行われる野外ミサ“河内キリシタン祈念祭”だ。もともとこのミサは、ピオ9世教皇によって1867年に福者(地域の聖人)に選ばれた日本二百五福者殉教者のうち、河内出身の三箇アントニオとその妻マグダレナを顕彰するために捧げられていた。始めてから数年のうちに、大東教会の人々は、福者アントニオと妻マグダレナの二人だけに焦点を合わせるだけでなく、彼らを産み育んだ河内キリシタンという信仰のゆりかご全体を大切にし、今を生きるわたしたちも彼らの信仰を受け継がなければならないという思いに至り、礼拝の名称を“河内キリシタン祈念祭”に変更した。

 前回(第6話)で取り上げた三箇サンチョを祖父(一説には叔父)に持つアントニオは少年時代より教会に奉仕し、イエズス会に入会し修道士となったが、後に、健康が理由か、学業の不振が原因かわからないがイエズス会を退会させられてしまう。その後摂津出身のマグダレナと結婚し、長崎で暮らした。元和の大殉教を生むことになる迫害が起こった時に、自ら奉行所に出頭し、キリシタンであることを申し出、捕縛され、長崎の西坂で妻マグダレナとともに殉教する。捕らえられた後もアントニオは30名もの人を牢で信仰に導いたと言われる。三箇アントニオは処刑が決まったあと、イエズス会の上長に手紙を書くが、それには、イエズス会を通して神様からいただいた恵みに感謝していること、イエズス会を去った今でもずっとイエズス会を愛し続けていること、またできることなら殉教する前にイエズス会で誓願をもう一度立てたいことなどが記されている。

 それと比べると、400年後を生きるわたしは自分自身の信仰生活が恥ずかしくてたまらない。修道会に入った後、休暇で家に帰ることがあったが、わたしは病床の母に修道会の神父の悪口や不平を言いまくっていた。母の愛した修道会の神父たちの悪口を母はどんな気持ちで聞いていたことか。なぜ、そんなことをまもなく神様に召される母の前で言わなければならなかったのだろうか。

今こそわたしは、福者アントニオと妻マグダレナだけでなく母にも祈りのとりつぎをお願いしなければならない。河内キリシタンの存在を初めて知った時は、「河内はキリシタンの聖地だったのだ!」と興奮でワクワクドキドキしたものだったが、次第に河内キリシタンの具体的な生き方を知り、今の自分の信仰に照らし合わせ始めると、自分が、恥ずかしくて、恥ずかしくてたまらない気持ちになってくる。

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カトリック大東教会聖堂

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