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河内キリシタン

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大東市三箇付近から見た飯盛山

竹延神父の河内キリシタン逍遥記 

第4話「何の得にもならないのに、誰から命令されたのでもないのに!」

―飯盛城での73名の洗礼―

 

 今、わたしは大東市北条にあるカトリック大東教会3階の司祭館でこの原稿を書いている。梅雨に入って三日目の今朝、窓から見上げる飯盛山は小雨に煙り、山上は雲に隠れて見えない。この方向だけを眺めるとまるで信州の山の麓にでもいるのではないかとふと錯覚してしまう時がある。カトリック教会の会合がこの教会で開かれるとき、他の教会の口の悪い信者から「大東教会は交通の便が悪くて遠いから行くのが大変です。」と怪訝な顔付きで言われることがある。そんな時、この教会出身の神父であるわたしは心の中でこう言う。「なにをおっしゃっているのですか。ここ大東教会がある場所はキリシタンの聖地なのですよ。あなたが今通っておられる教会よりもよほどカトリックの歴史は古いのですよ!」と。 とはいえ、わたしも最初にこの教会に着任した時は、「よくもまあこんな辺鄙(へんぴ)な、田舎でも都会でもない中途半端なところにある教会に送られてしまったものだ。わたしも運が悪い!」と目上を呪ったのであるから、人を裁くことはできない。

 にわかに信じられないことなのだが、大東教会の背後にある飯盛山山上に築かれた飯盛城が短い期間だけとは言え、天下の中心になったことがあるのだ。1564年にここに城を築いた阿波(徳島県)出身の武将三好長慶(みよしながよし)は、そのころの天下と呼ばれた近畿地方一帯を支配した。彼は天皇と将軍がまします京都を本拠とはせずにここ飯盛山で政治を行い、そして、この山城の麓には街を作らず、遠く離れた港町堺をまるで城下町のように利用するという壮大な構想の持ち主だったのだ。

 

この飯盛城には、奈良の多聞城で洗礼を受けた結城山城守忠正(ゆうきやましろのかみただまさ)の息子結城左衛門尉(ゆうきさえもんのじょう)が三好長慶の直属の部下として詰めていた。左衛門尉は同僚の武士たちにとても慕われていたようだ。同僚たちは、結城左衛門尉が奈良で洗礼を受けキリシタンとなったと知ると、飯盛城にもバテレン(神父)を城に呼んで、左衛門尉を喜ばせてやろうとたくらんだ。さっそく、堺にいるイエズス会のガスパル・ヴィレラ神父の下に城から使者が遣わされた。ところがイエズス会の方では、これはひょっとしたら河内の武士たちがバテレン退治のわなを仕掛けようとしているのかもしれないと怪しんだ。ヨーロッパ人の神父が行って斬られたら大変だから、日本人イルマン(修道士)のロレンソ了斎を代理で派遣した。ロレンソは九州の平戸出身。山口でザビエルから洗礼を受けた元琵琶法師である。片目が見えず、足も不自由で風采が上がらず、聴衆から唾を吐きかけられたこともあるそうだが、ひとたびキリスト教の教えを語り始めると多くの人が彼の話に引き込まれ、彼の話すデウス(神)に魅了されてしまうのだった。ロレンソ了斎の説教の結果、城主三好長慶の家臣73名が洗礼を受けることを決意した。ロレンソの知らせで堺からヴィレラ神父が呼ばれ、飯盛山上にある城内で武将たちに洗礼が授けられた。

 

城主の三好長慶は洗礼を受けなかったのだから、この洗礼には領主による信仰の強制は無かったと言えよう。また、貿易による利益を得ようとか、西洋の科学的知識を探求したいとかいう思いが、にわかに73人に湧きおこったとも考えにくい。当時の河内の武士たちが共通して求めていた心の拠り所を、バテレンがもたらした新たな教えが満たしてくれたと考えるしかない。喉の渇きを新鮮な水が潤してくれるかのような、あるいは、空腹を炊きたてのご飯が満たしてくれるかのようなできごとが飯盛山での武士たちの集団洗礼であるのだと思う。そのころの河内の武将たちの中にあった心の渇きと餓え、それに対するキリスト教の満たしということが何だったかを探ることが河内キリシタンに向き合うわたしたち信仰者の大きなテーマである。答えを見つけられるといいのだが・・・・・。

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73人が洗礼を受けた飯盛山城跡(千畳敷郭付近)

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