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河内キリシタン
竹延神父の河内キリシタン逍遥記
第5話
「どうして三好長慶は飯盛山頂に城を築いたのだろうか?
―戦国時代の河内の山と川と道―
河内のど真ん中の東大阪市で生まれたわたしは物心がつくころから生駒山を仰ぎ見て育ってきた。頂上にテレビ塔が林立する標高600メートルほどのこの山は河内平野からすっくと屏風のようにそびえたっている。20代の時、農業研修生としてアメリカで働いていたことを第2話で書いたが、実は、配属された最初の農場は首になったのだ。アメリカ中西部のミズーリ州の農場を解雇された後、しばらくイリノイ州にある友人が働く別の農場にしばらく居候(いそうろう)させてもらった。ミズーリの農場もイリノイの農場もまわりはどの方向に車を走らせても、山は無い地域だった。
河内キリシタン関係地図
その夏、アメリカ中西部を襲った数十年に一度という熱波のために農作物はほぼ全滅、豚も大量死した。自然災害だけが解雇の理由ではなく、大学で畜産の勉強をちょっとかじったからといって天狗になっていたわたしは、ことごとくボスの命令に反抗した。それなのに、農場を首になったことで、わたしはずいぶんプライドをはぎ取られ、意気消沈した。友人の住む農場の小屋を出て、畑の中を散歩したが。四方どこを見回しても山が無いというのは、心の拠り所が無いようなもので、孤独感と虚無感がひしひしと内側から湧き上がり、何かにすがりつきたい気持ちが起こってきた。そして、「ここに生駒山があったら自分はどれだけ慰められるかわからない!」とつくづく思った。
前置きが長くなった。戦国時代の生駒山地は、現代の山並みとそれほど変わらないと思う。テレビ塔や鉄塔や道路などの巨大建築物は確かにたくさん付け加えられてはいるが、それらを除けば当時の生駒山も飯盛山も山の形状はほとんど今と変わらないと思う。標高314メートルの飯盛山は、三好長慶(みよし ながよし)が頂上に飯盛城を築いた当時から、北河内のランドマーク(目印・名所)だ。生駒山の主稜線から西側すなわち大阪湾側にちょっと飛び出している。このことにより飯盛山の視界は270度まで上がり、山頂付近からは堺はもちろん、反対側の京都方面も見わたすことができる。頂上直下から北・西・南の三方向は急斜面が続くが、東側つまり奈良県側にはゆるやかな渓谷が奈良側から山をぐるりと回りこむような形で大阪側に流れ出している。この渓谷沿いに道を通せば馬で武器・兵糧も山上まで運べたであろうと郷土史家たちは言う。ここは城を築くことは戦が絶えなかった戦国末期の天下人(当時の言葉では、都を有する近畿地方全体を治める人のこと)三好長慶にふさわしいことだ。
それでは飯盛山の下に広がる河内平野は当時どんなありさまだったのだろう。これは、戦国時代と現代とではまったく様相を変えてしまっている。その主な理由は、奈良盆地の水を集めて大阪湾に流れる大和川が今から300年ちょっと前の江戸時代半ば(宝永元年=西暦1704年)付け替えられたことによる。昔も今も大和川は生駒山地が途切れる柏原市あたりで河内平野に流れ入る。だが、当時の大和川は今のように河内平野を直線で堺方面に向かうのではなく、方向を北に変えて河内平野を横切り、いくつかの支流に分かれ、ある支流は飯盛山の麓で深野池や新開池という湖のような大きな池を作り、池から出た支流はまた元の支流とひとつになって今の天満橋あたりで最終的には淀川に合流していたのだ。
つまり、現在たくさんの家、ビル、道路、鉄道など人工物でうめつくされている河内平野は、戦国時代は大きな池と大和川の支流に囲まれた文字通り“大河の内の土地”、「河内」だったのだ。江戸時代半ばに大和川は柏原から大阪湾にほぼ直線に流れるように工事によって付け替えられたから、その後、大和川が河内を流れていた時の川と池は干上がり、また新田開発が行われ、新しい街道も作られた。しかしながら、江戸時代初めまでの河内の中心部は大きな川と池がじゃまをして自由に歩いて通行できるようなところではなかったのだ。唯一河内を横切って歩ける街道が、生駒山ろくに沿って南北に走る東高野街道だった。東高野街道はその名の通り、京都から八幡、枚方を通り、現在の四条畷市、大東市、東大阪市、八尾市を横切り、河内長野から高野山を目指す道だ。その途中の河内長野では西高野街道が分岐し堺へとつながっている。だから、最初のキリスト教宣教師フランシスコ・ザビエルは山口から船で瀬戸内海を抜けて堺に上陸し、この高野街道を歩いて都(京都)に上ったと推測されている。
今の人は、飯盛山は大阪のはずれの辺鄙な場所にあると思い込んでいるが、当時はその真下を京都や堺につながる“東高野街道”が通り、またさらに東高野街道のすぐ西側にある深野池からは水運で瀬戸内海にもつながっている交通の要所に当たっていたのだ。飯盛城を守る天下人の城主三好長慶とその武将たちは、すぐれた戦闘能力をもつ武士だったというだけでなく、いち早く京都や堺の最新のニュースを手に入れることのできた情報通であったにも違いない。河内・飯盛山城で73名が領主に強制されたわけでもないのに、自分たちでキリスト教の信仰を選び取って洗礼を受け、そしてその後、歴史の荒波に翻弄(ほんろう)されたにもかかわらず、多くの人が信仰を捨てなかったのは、日本のキリシタンの歴史の中でもとりわけ大きなできごとだったのだ。神はご自身の教えを日本に伝えるために河内の山川と河内の人々を道具とされたのだった。わたしが子供のころから何気なく仰ぎ見てきた生駒山は、まるで信仰者を外敵から守る鉄の屏風か城壁かのようにわたしには思える。生駒山地が河内にそびえるのは単なる偶然ではなく神の摂理なのだと思うのはわたしの狂信のせいであろうか。