top of page

河内キリシタン

kawachi-3-b.jpg

奈良市若草中学校(多聞城跡)

竹延神父の河内キリシタン逍遥記 

第3話「ミイラ取りがミイラになるお話」

―河内キリシタンの先駆けとなる奈良での洗礼―

 

 わたしはクラレチアン宣教会という修道会の神父だが、大変劣等感が強い。ふと人前で「クラレチアン会は三流の修道会ですが・・・」と口を滑らしてしまうことがある。それならどの修道会が一流なのかと問われたら、わたしは迷うことなく「それはイエズス会です!」と答えるであろう。イエズス会は日本にキリスト教を伝えた最初の修道会でいまもなお日本の教会で指導的役割を果たし続けていると考えるからだ。高校の日本史の教科書にも名前が載っているではないか。

1534年にパリのモンマルトルの丘のふもとの小さな聖堂でイグナチオ・ロヨラと同志6人によって創立されたイエズス会は、創立メンバーの一人でもあるフランシスコ・ザビエルをいちはやく東洋の宣教に派遣した。1549年に鹿児島に上陸したザビエルは、平戸や山口で布教するが、“まずはトップを狙え”というイエズス会の方針に忠実で、天皇の住む京都を目指し、日本の国王である天皇から宣教の許可をもらって布教しようと考えた。しかしながら、たび重なる戦乱で荒れ果てた京都は天皇も日々の暮らしと自分の命を守るのに精いっぱいのありさまで、何の実力も無いことがわかりザビエルは失望のうちに九州に戻った。彼は数名のイエズス会の神父と修道士に後を託して日本を離れ、いったんはインドのゴアに退いたが、すぐその後で日本文化に大きな影響を与えた中国をめざした。ところが中国本土にたどり着く直前に上川島というところで彼は病死してしまう。ザビエルが日本に滞在したのはわずか二年余りだ。

 

 おどろくべきことに、フランシス・コザビエルが日本を去ってわずか十数年しか経っていない1563年に九州から遠くかけ離れた河内の飯盛城で73人もの武将が洗礼を受けることになるのである。わたしは、「ザビエルをはじめイエズス会の宣教師たちは京都と堺の二大都市を行き来していたのだから、その通路にあたる河内でキリスト教の種が撒かれたのも当然のこと」と考えていた。ところが当時の布教活動はそんな生やさしいものではなかったのである。そのころは京都でも堺でも洗礼を受けて信者となった人はごく少なかったのだ。京都の町衆や堺の商人たちはキリシタンには関心を示すどころか、宣教師たちは石を投げられたリ、住まいとして借りていた小屋を壊されたりする有様で、その道中の河内で布教がそんなに自然に成功するわけはなかったのである。ある偶然とは思えぬようなできごとが河内にキリスト教ともたらすことになったのだ。それは、奈良における三人の武将の洗礼である。

 

 当時近畿地方を治めていた阿波国出身の領主三好長慶(みよしながよし)はその右腕である松永久秀(まつながひさひで)という武将に大和の国(奈良県)の統治を任せていた。この松永久秀自身は自らも法華宗の信者で、僧侶たちからの要請もあったらしく、キリスト教のバテレン(神父)が布教活動を行っているのを快く思わなかった。そして、三人の有能な部下にキリシタン弾圧のための調査を命じた。一人は結城山城守忠正(ゆうきやましろのかみただまさ)、息子は河内・岡山の領主である。もう一人は、清原枝賢(きよはらしげかた)、後に娘は細川ガラシアの侍女となり彼女に洗礼を授けることになる。残りのひとりは高山飛騨守(たかやまひだのかみ)で、後にキリシタン大名として知られるユスト高山右近の父である。彼ら三人は仏教や神道にも精通した松永久秀の頭脳であったのだが、たまたまディエゴという都の信者が訴訟のために主君松永久秀の城に来たのを幸い、彼にキリスト教のことを尋ねた。ところがディエゴは洗礼を受けて間もないにも関わらず、堂々と創造主である神のことについて弁明し、彼らを驚かせた。三人の刺客は、キリシタンを排斥するどころか、日本人修道士ロレンソに教えを請い、キリスト教の教えに魅了されてしまい、とうとうヴィレラ神父から洗礼を受けることになったのである。“ミイラ取りがミイラになった”この奈良での“洗礼事件”がこの直後に河内にキリシタンをもたらすきっかけとなるのである。

 

 最初の洗礼があったのは松永久秀の居城、奈良市郊外の多聞城(たもんじょう)と言われている。今はその跡地が奈良市立若草中学校となっているこの多聞城は、学校の正門前にある案内板によると、「近世城郭の先駆けとなる城で、後世の天守閣に相当する四階櫓(やぐら)が備えられていた」という。この多聞城で清原枝賢と結城山城守忠正が受洗し、ヴィレラ神父来訪時たまたま不在だった高山飛騨守は息子の右近とともに少し遅れて今の近鉄榛原駅近くの沢城で同じくヴィレラ神父から洗礼を受けた。結城山城守忠正の息子結城左衛門尉(ゆうきさえもんのじょう)は河内の岡山を領地としていたが、彼が父といっしょに奈良で洗礼を受けたことが後の河内・飯盛山での武将の集団洗礼につながっていくのである。飯盛山での73人の集団洗礼の話は次回に。

kawachi-3-a.jpg

多聞城跡から見た東大寺大仏殿(手前は城跡から掘り出された石塔群)

bottom of page