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河内キリシタン

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大東市の三箇菅原神社。三箇城の候補地の一つ。

竹延神父の河内キリシタン逍遥記 

第6話

「大人(たいじん)の風格が信仰者を育てる。」

―河内キリシタンの父三箇サンチョ―

 

10年ほど前に亡くなったわたしの父は死ぬまで無神論者を貫き通した。母が熱心なカトリックの信者だったので私も兄弟も、その子供たちも洗礼を受けた。父はちょうど亡くなる一週間前に誕生日を迎えた。父の子供と孫たちが病室に集まり、誕生日を祝った。わたしは、教会から遠ざかっている甥や姪に「たまには教会に来てミサにあずかるように!」と諭したが、それを見ていた父は、ベッドから手招きして自分の孫たちを呼び寄せ、「神なんかいない!」と言い出した。彼は、神がいないと思う理由と自分の生き方を半時間も孫たちに説明した。甥や姪は神父であるわたしには耳を貸さないが、大好きな祖父の話には熱心に耳を傾けるのだ。わたしは、“父に敗けた!”と思った。父は自分の孫たちの誕生日や入学・卒業などの折に、食事を御馳走したり、プレゼントを与えたり、旅行に連れていったりと惜しみなく愛情を注いできたのだ。それにくらべわたしは、甥や姪たちに御馳走どころか、缶ジュース一つあげたこともない。

わたしが子どもの頃から父は身内だけでなく、従業員や来客に対してももてなすのが大好きだった。従業員も家族も分け隔てなく同じ食卓で食事を食べた。愛を言葉だけで語っても人は見向きもしないが、それを惜しみなく実践する人の下に人は集まってくる。

 

 1564年飯盛山の頂上にある飯盛城で天下人三好長慶(みよし ながよし)の部下73名がヴィレラ神父から洗礼を受けた。この73名の武士団の筆頭ともいえる存在が三箇頼照(さんが よりてる)、洗礼名サンチョであろう。当時、飯盛山のふもとには深野池が広がり、大和川の支流が流れ込んでいた。池の中央には、“三箇”と呼ばれる数個の島があり、ここに三箇サンチョは領地と城を持っていた。飯盛城を真正面に臨む要地だ。洗礼を受けた彼は、私財で三箇に教会を建てた。バテレン(神父)やイルマン(修道士)も京都や大阪を行き来する途中に三箇にたびたび立ち寄り、サンチョからもてなされたことを手紙に記している。復活祭のミサの後には、サンチョはたくさんの船を深野池に漕ぎ出させ、網で魚を漁り、大勢の人に御馳走をふるまった。サンチョの家族も洗礼を受け、妻はルチア、息子はマンショ、娘はモニカという洗礼名が与えられた。彼ら家族は、貧しい人々や病人に対しても慈悲深く、援助を惜しまなかったという。

 三箇サンチョによって建てられた教会は、その後、二回ほど場所を移転した。初代は三箇の島に、二代目は今のJR住道駅の近くであったようだ。住道という地名は、元は角堂(すみのどう)と書き、聖堂がここにあったことに由来するという説もある。三代目の聖堂は、東高野街道沿い今のJR野崎駅東南の野々宮とよばれるあたりだと考えられている。より、多くの人が教会に集えるようにというサンチョの配慮だろうか。

 ヴィレラ神父、ロレンソ了斎修道士、アルメイダ修道士、フロイス神父など日本キリシタン史で重要な位置を占めるイエズス会士たちはサンチョが建てた三箇教会を訪問した。しかしながら、明智光秀が本能寺の変で織田信長に謀反を起こした後、三箇一族は明智光秀に組みしたことでこの地を追われることになった。不思議なことに彼は戦い相手の豊臣秀吉から命を奪われはしなかった。大阪城にできた教会で修道士のような生活をしていたとの記録が宣教師たちの手紙に載せられている。だがどこで最期を迎えたのか記録にはない。

 

河内キリシタンが河内の地で信仰を守ることができたのはわずか数十年でしかない。しかしながら河内キリシタンの中からは、殉教者となる人々や海外に流されても信仰を失わなかった人々、外国人宣教師とともに九州に行き、そこで宣教活動をする人などを輩出する。彼らは、三箇サンチョのようなゴッドファーザーのもとで御馳走にあずかり、大切に育て上げられたのだ。三箇サンチョの物惜しみしないもてなしの心、大人(たいじん)の風格が、河内の若者のキリスト教信仰を育て、その中から多くの殉教者や宣教者を出したのだと言っても過言ではないだろう。

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JR住道駅前の寝屋川・恩智川合流箇所。二代目三箇教会の候補地

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