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河内キリシタン

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四條畷市岡山から新池越しに見る忍陵(しのぶがおか)

竹延神父の河内キリシタン逍遥記 

第2話

「引っ越せばキリシタンの里」

―400年ぶりの河内・岡山でのミサ―

 

「世の中に偶然と言われることは何一つない、すべては神の計画である」ということを神学校の授業で教わったことがある。

高校3年生の時、実家は東大阪市の長田から四條畷市の岡山に引っ越した。養豚業を営んでいた父は長田の養豚場を廃止し、四條畷の同業者の養豚場を買い取ってこの地でも養豚を始めたのだ。新しく引っ越した家からは新池という池越しに丘が見えた。この丘が忍陵(しのぶがおか)だ。

 

北海道の大学で4年間畜産を学び、アメリカの農場で2年間農業研修生として働いた後、四條畷の実家に戻り家業を手伝い始めた。北海道やアメリカ中西部の雄大な景色を知っているから、田舎とも街ともつかないゴミゴミした四條畷での生活にわたしはうんざりとしたのを覚えている。中でも閉口したのは近所からの悪臭に対する苦情の電話だ。父は電話に出ないからわたしが出るしかない。「この臭い匂いなんとかなりませんか!」「こどもが寝ついたと思ったら、豚の鳴き声で起きてしまった。どうしてくれる!」という文句にわたしはひたすら謝るしかなかった。父は、「こちらの方が昔から豚を飼っているのに何で謝らないかんのや。」と取り付く島もない.

今だから言えるが、わたしが神父になったのは、なんとか実家を逃げ出してこの“苦情地獄”から逃れたいというのが一つの理由だとも言えなくもない。(大変不純な動機だが、「神学校に行けばご飯が一杯食べられるから・・・」という理由で神学校に入る発展途上国の神学生をわたしは絶対に軽蔑しない!)。不純な志望動機が後で浄化されていくこともあるのだ。

 

アメリカの農場での研修を終え、25歳で再び四条畷に帰ってきたときに、河内・岡山のわたしの実家の応接間では平日のミサがヤマス神父によってささげられていた。カトリック四條畷教会が都市計画に引っ掛かり、大東市に移転するまでの間のことだ。

キリシタン時代に、河内のキリシタンたちは四条畷市の岡山と砂、大東市の三箇(さんが)に聖堂を建てた。今の忍陵(しのぶがおか)神社のところにあったとされ、ヨーロッパからの宣教師がローマにたびたび報告したあの岡山の教会。その目と鼻の先で400年ぶりにささげられるミサ(参加者は神父を含めて3~4名)にアメリカで信仰を取り戻したわたしも参加していたのだ。14歳から24歳までの丸10年間全く教会を離れ、クリスマスも復活祭もミサに行かなかったこのわたしが! キリシタン時代の河内の教会のことはまた次の機会に。(つづく)

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