top of page

河内キリシタン

kawachi-12a.JPG

伊地知文太夫が戦死した天草・志岐の町(現;苓北町)

竹延神父の河内キリシタン逍遥記 

第12話

「この道は天国へとつながっている!」

―南河内・烏帽子形(えぼしがた)城のキリシタン―

 

担当している教会のある青年が若者のための集いを提案してくれた。その名はミッチ。近隣の三つの教会(しろきたブロック=門真教会・今市教会・大東教会)の近くには京街道や東高野街道など中世の重要な道が通っている。道は人と人をつなぐ大切な役割をしている。だから、青年どうしがつながるようにその集いには路・道(みち)にちなんで『ミッチ』と名付けたいのだそうだ。

 

青少年を教会に呼び込もうとわたしたち神父が計画したことはほとんどうまくいかず、若者の教会離れは進んでいる。自分自身の経験から、この青年の集いもスタートはしても、すぐに人が集まらなくなり、やがては解散するだろうと見込んだ。ところが、予想はみごとにはずれた。ミッチは食事をしながらの歓談の場を大切にした。数人の青年が買ったものを持ち寄って食べているうちは、もう終わりかと思ったが、そのうちベトナム料理店で働く女性が料理の奉仕を買って出てくれた。男性たちも進んでこのベトナム人女性の料理作りのお手伝いをするようになり、日本人の若者もベトナム人の若者もそれぞれSNSで仲間を募った。おかげでいつも20人を超える国境を越えた青年男女がミッチに参加してくれた。心のこもった手作りの料理に舌鼓を打ち、若者たちの会話は弾んだ。残念なことにコロナ禍で現在“ミッチ”は休業中だが、なるほど、人が集まるためにはおいしい食事やSNSによる呼びかけなど、人が行き交う“道”を整えることが大切なのだと、逆に青年たちから教えられた。

 

河内キリシタン発祥の地・飯盛山や、教会が建った大東市三箇や四條畷市砂・岡山も東高野街道沿いにある。東高野街道があるからには、当然西高野街道もある。西高野街道は堺市大小路(おおしょうじ)を起点に高野山をめざすが、もう一方の東高野街道は京から高野山へと向かう道だ。さらには、東・西高野街道の他にも中高野街道までもあり、こちらは京街道の守口宿を起点とし、大阪市の平野(ひらの)を経由して河内長野の手前の狭山で西高野街道に合流する。この東西の高野街道は、今の河内長野駅(南海・近鉄)駅前付近で一本になり、そこから先は“東”“西”“中”が取れ、単に『高野街道』と呼ばれるようになる。河内長野は奈良県五條市に向かう大沢街道の起点でもあり、近畿地方の中世陸上交通の重要拠点であった。

 

この高野街道は河内長野から先は、河内の国と紀伊の国をまたぐ山間部に入っていくのだが、その前に河内長野を出てしばらくすると標高150メートルほどの山(丘陵)の下を通る。この山の上に、中世、烏帽子形(えぼしがた)城が築かれた。山頂からは上記の諸街道が眼下に見降ろされ、堺の町、金剛・葛城・信貴・生駒の山並みや飯盛山までも見わたすことができる。烏帽子形城の城主の一人であったのがキリシタン・パウロ伊地知文太夫(いぢち ぶんだゆう)である。彼が1563年のヴィレラ神父による飯盛山での集団洗礼で受洗した74名の武士の一人であったかどうかは不明であるが、三好長慶の居城で受洗した北河内の三箇、砂・岡山のキリシタンたちの同志であることは間違いない。伊地知文太夫は烏帽子形城に教会を建てただけではなく、堺にある持ち家を聖堂に提供し、息子3名を神学校に送った。北河内の結城一族や三箇一族に敗けないキリシタンの首領(ドン)がここ南河内の烏帽子形城にもいたのだ。

 

 北河内の三箇や砂・岡山のキリシタンがそうであったように、キリシタンの庇護者であった織田信長が本能寺の変(1582年)で亡くなり、その後に政権の座についた豊臣秀吉の領主御国替え政策と伴天連(バテレン)追放令(1587年)により、南河内のキリシタン・パウロ伊地知文太夫も烏帽子形城を去ることになる。秀吉に気に入られ、肥後の国(熊本県)の南半分を豊臣秀吉から与えられた堺出身のキリシタン大名小西行長が彼を拾う。九州において行長は、まず手始めに自らの居城である熊本の宇土城を新たに建て替えようとした。新宇土城の普請命令に天草の志岐麟泉(しき りんせん)が従わなかったことを行長は秀吉に訴えたので、秀吉は行長に天草・下島の志岐を攻めることを命じた。この戦いの先鋒を行長から命じられたのが、河内から新たに小西軍に加わったパウロ伊地知文太夫だった。3千名の兵を率いて船で麟泉の居城である志岐城に敵前上陸を試みるが、不慣れな土地での戦いに将兵ともに討ち死にする。

 

 伊地知文太夫が戦った志岐麟泉は、南蛮船を天草・志岐の港に招こうとする目的で洗礼を受けたキリシタンでもある(南蛮船来訪の夢はかなえられず後に棄教)。河内の地からはるかかなたの西海の地でのそれもキリシタン同士の戦いをパウロ伊地知文太夫はどう思ったのだろうか・・・・・。その後、天草の地はキリシタン大名の小西行長の支配を受け、堺出身のヴィセンテ日比谷了荷(ひびや りょうか)が志岐城城代となる。他にも小西行長を頼った河内キリシタン・三箇マンショは天草・上島の上津浦(こうづうら)に知行地を得る。1566年ごろから天草で布教を続けてきたアルメイダ修道士などのイエズス会宣教師たちに河内キリシタンも加勢をする形になった天草は、一時はほとんど全住民がキリシタンとなる。キリシタン時代が終わりを迎え徳川幕府による禁教令により宣教師が一人もいなくなった後、キリシタン王国であった島原と天草を治めるように配置された異教徒の新領主たちは、飢饉が続くにもかかわらず過酷な年貢徴収を行う。天草から、元小西行長の家臣であった浪人益田甚兵衛の息子天草四郎時貞が一揆の盟主として選ばれ、1637年島原の乱が起こる。原城に加わった一揆勢3万7600人のうち、島原勢は2万3,900名、天草勢は1万3,700名という。最後まで籠城したキリシタン2万人は全員幕府軍に皆殺しにされた。

 

 天草・下島の志岐の地で戦に敗れて討ち死にした河内キリシタン・伊地知文太夫だけでなく、原城に籠り殺された天草のキリシタンたちも、この世の人生だけを見ると哀れだとしかいいようがない。しかし、彼らは決してこの世の道だけを歩んではいなかった。道・真理・命であるキリストにすべてを賭けることを選んだのだ。「わたしの本国は天にあります」(新約聖書フィリピの信徒への手紙3・20)と使徒パウロは言う。パウロ伊地知文太夫にとって、本国である天国への道を選ぶ決心は、烏帽子形城を離れ、河内路に別れを告げる時にすでにできあがっていたのかもしれない。キリシタンにとっては今いる場所を主・キリストとともに精一杯生き抜くことが天国への道なのだから・・・。


 

kawachi-12b.JPG

烏帽子形城祉から堺方面の展望

kawachi-12c.JPG

烏帽子形城址の傍を通る高野街道 

bottom of page