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今月のメッセージ2026

​毎月の教会新聞に掲載している、司牧チームによる「巻頭言」の2026年のバックナンバーです。

2026年5月号 掲載

20年ぶり

梅﨑 隆一神父

 子どもの頃から教会の仕事をする司祭に憧れていたのですが、人から尊敬される司祭になんてなれるわけがないと思っていました。ある時、友達から「一緒に神父になろう」と勧められたのがきっかけで、司祭の道に入りました。出来が悪いので、12年かかって、やっと司祭になりました。「あんな馬鹿な人が神父になっても良いのですか」と言われていたのですが、神様の選びは人の知恵によるものではないことを、この出来事を通して、肌で体験いたしました。

 2000年に叙階し、司祭26年が過ぎました。そのうちの2001年から2006年まで今市教会にいました。2001年からうつ病を抱えていて、治っていないのにずっと仕事をしていました。そんな中、インドに行くことになりました。インドに送られた理由の一つは、司祭を辞めさせるきっかけにするつもりのようでした。ですからインドから帰ってきたら、「司祭を辞めるか残るか考えろ。お前のような奴は、どこにいっても通用しない」と当時の管区長から面罵されました。一か月後、退会の意志を伝えたところ、何故か慰留されてしまい、現在に至ります。

それからずっと、そのことについて思い返しているのですが、結局は神様に退会を認めてもらえなかったのだと考えています。人の賢さでは判らない、人の目から見たら愚かにしか見えない愚かさを演じることが私の役割なのかもしれません。恐らくうつ病も治っていないので、この病気とも一生のお付き合いになるのではないかと思います。

 銀祝の際そんな話をしたところ、金フランシスコ神父様(サバティカルで今年の7月まで枚方教会滞在)に「何があっても生き残ったらそれでいいのですよ」と励まして頂きました。

 司祭になって26年間のうちの、10年間は、小教区司牧とは違う場所に住んでいました。修道院にいるのだから、修道生活をしていると言えば聞こえがいいのですが、やっていることはハウスキーパーでした。修道院の粗大ごみの片づけ、草刈り、剪定、場合によっては毎日の食事作りなどが主な仕事。でもどの修道院に行っても存在する仕事なので、死ぬまでこの仕事とは縁が切れないのではないかと思います。

 小教区司牧の仕事をしていなくても、朝のミサで馴染みになったシスターたち、司祭や信徒の方々と知り合いになると、司祭らしい仕事に呼んでもらえました。それも良い思い出です。

 立派な仕事をしている司祭から見ると、遊んでいると評価されます。確かにそうなのかもしれません。しかし、そのような評価は神様の評価と同じであるとは思えません。どのような役割を頂いても、天の父のみこころを行うのが、私たちの使命なのではないでしょうか。

 紆余曲折を経て20年後に、今市教会に戻ってきました。20年の間に何度も古い自分が死に、新しい自分が生まれました。しかし自分自身が変わったところは、面の皮が厚くなったことぐらいなのではないかと思います。

2026年4月号 掲載

新しいしろきたブロックへの過ぎ越し

しろきたブロックモデラトール 長崎壮神父

 主のご復活おめでとうございます。

 

 復活祭は私たちキリスト信者にとって一番大きな祝いです。主イエスがそのご復活によって、私たちに永遠の命への門を開き、私たちがどのような時も希望を忘れることなく光のうちに歩めるようにしてくださったからです。

 

 ご復活を迎えるまでに私たちが過ごしてきた四旬節は、もともと洗礼志願者の準備期間として始まり、洗礼を受けている信者は、祈りと節制と施しを普段以上に心がける期間となっていきました。

本来であれば、復活徹夜祭において受洗者がいることが望ましいのですが、今年は復活徹夜祭での洗礼式は三教会とも行われず、今市教会でプロテスタントからカトリックへの転会式が行われるにとどまりました。ただ、あらたな洗礼志願者の方が教会の門をたたいており、来年の復活徹夜祭では新しい兄弟姉妹を迎えることができそうです。

 

 この復活祭から教会も新年度となりますが、ご復活の喜びがしろきたブロック三教会のさらなる成長への過ぎ越しの力になればと願っています。

 

 教会が成長していくために大切なことは、定期的に歩みを振り返ることです。

 

 ここ数十年、カトリック教会が元気を失い続けている原因は、社会と同じく少子高齢化が進んでいることもありますが、かつて行われた第一回福音宣教推進全国会議(通称:NICE)や、旧大阪教区の新生計画などの定期的な見直しが不十分だったとの声もあります。企業であれば、旧年度の振り返りをしたうえで事業報告と事業計画を発表しますが、教会も年度末の決算を行うだけでなく、旧年度の諸活動を霊的な目で振り返り、課題と向き合い、識別し、現代社会の要望に応える魅力的な教会づくりの計画を立てることになります。

最近のことであれば、世界のカトリック教会は、“交わり・参加・宣教”をテーマとしたシノドス(2021~2024)を経験しましたが、テーマとなったこの三つのキーワードに照らし合わせて、各小教区の歩みを振り返り、新たな計画を立ててもいいでしょう。

 

 個人レベルでも、昨年は“希望の巡礼者”の聖年の精神を生きることで、大切な真理に気づく恵みの体験をした人もいるでしょう。そのような方は是非ともその体験を兄弟姉妹に伝えていってもらいたいと思います。喜びや大切な真理の気づきの体験は、兄弟姉妹に希望と勇気を与えるものであり、立派な福音宣教になります。そして真の交わりのある教会になるためには、心にある隔ての壁を取り払い、互いに謙虚に耳を傾けあうことが必要です。

 

 今春より司牧チームのメンバーの入れ替えもありましたが、司祭団と信徒が信頼のうちに協力し合い、喜びに満ちた一年にしていきましょう。

2026年3月号 掲載

主に委ねます

シスネロス・ハイメ神父

 主の変容をマタイ福音書は語ります。

最後の聖句に集中しましょう。「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことを誰にも話してはならない。」とイエスは弟子たちに命じました。

 よく見ることは大切ですが、説明することが困難な場合もあります。彼らは証人として、見たことも感じたことも伝えなければなりません。伝える順番もあります。彼らは、最初に仲間に、後に飢えている人、渇いている人に神の国が近づいたことを述べ伝える召命を持つ者です。

 信仰者以上であり、救い主キリストの弟子です。このことは主な神秘ですから、四旬節の期間において深めるべきといえます。主キリストが逮捕され、十字架を担ってカルヴァリオまで運ばされ、十字架に架けられて死に葬られました。しかしその3日目に復活されるとの予告通り、信仰の世界に導かれる良い知らせが現実となりました。感謝です。

キリスト教は人間の救いを述べる宗教です。

 祈り、イエスのみ心への感謝と願い。十字架に上げられた主キリストは、私たちを永遠の命に招いてくださいます。主の愛に応える恵みを祈ります。

「主イエス、槍で開かれたあなたの脇から血と水が流れ、契約は新たにされました。あなたのものとなった民の心を日々新たにしてください。御父に願い求めます。イエスのみ心、あなたに全て委ねます。そして教えて下さったように、あなたの御名によって願うならすべて叶えられます。アーメン。感謝します。」

2026年2月号 掲載

2026年の初めに当たり祈ります

フェリックス・マルティネス神父

愛に満ちあふれる神である父よ、

2026年の初めに感謝の心で、私たちはお祈りします。

私たちをイエスの愛に深く根付かせてください。

生ける水のほとりに植えられた木のように、

私たちの魂をキリストの心にしっかり留まらせてください。

祈りが私たちを養う土壌となり、

み言葉が私たちの道を照らす光となりますように。

静寂の中で、主の声を聞き、

奉仕の中で、主の鼓動が感じられるようにしてください。

 

今市教会共同体が使徒たちの集いとなり、

互いへの愛が、神に愛された者として湧き出るようにしてください。

神によって形作られる謙遜を与えてください。

そうすれば、私たちは神の心で考え、

神の心で愛し、神の目で見ることができます。

宣教において大胆になれますように。

使徒的熱意で、私たちを燃え上がらせてください。

聖なる勇気を与えてください。

すべての心をあなたに引き寄せるほど、力強い証しとなりますように。

私たちの母であり、母なるマリアと共に、

あなたの言葉を心に思い巡らし、奉仕に励まれたマリアと共に、

私たちもイエスをこの世に伝える共同体になりますように。

私たちは、この一年をマリアの汚れなきみ心に委ねます。

2026年が、人々の救いのために、深い交わりと勇気ある宣教の年となりますように。

私たちの主キリストを通してお祈りいたします。

アーメン。

2026年1月号 掲載

新たな希望とともに新年を迎える

タラン・スン・ニュ・イ神父

 新しい年を迎えるという事は、私たちにとって単なる暦の変化以上の意味を持ちます。それは、過ぎ去った日々の重荷や不安をそっと後ろに置き、神が用意してくださる「新しい始まり」へと歩み出す恵みの瞬間です。聖書は、古いものが過ぎ、新しいものが生まれるという希望を私たちに繰り返し語りかけています。「見よ、わたしは万物を新しくする」(黙示録21:5)。

 しかし、新しい年を迎えても、現実の生活では悩みや葛藤、心配ごとが消えるわけではありません。家族のこと、仕事のこと、人間関係のこと、心に残る傷や不安——それらは容易に私たちの心を重くします。カトリックの信仰は、この現実を否定しません。むしろ、神はその現実のただ中に降りてこられ、疲れた心にそっと寄り添われる方であると教えています。イエスは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)と招かれました。この言葉は新年を迎える私たちにとって、どれほど静かで強い慰めとなるでしょうか。神に寄り添われているという確信こそ、希望の第一歩なのです。

 

聖書が語る希望は、単なる「うまくいきますように」という願望とは違います。それは「神が共におられる」という確固たる土台の上に置かれた希望です。預言者イザヤは、「闇の中を歩む民は、大いなる光を見た」(イザヤ9:1)と語りました。これは、闇の現実があっても、神の光がその闇を貫き、未来を開くという希望です。光は闇のただ中に降りて、その領域を静かに変えていくのです。だからこそ、たとえ生活が忙しく、思い煩いが心を覆うような時であっても、神は私たちの人生にそっと灯りをともしておられます。その光が希望へとつながり、希望が未来へとつながるのです。

 新しい年を迎える私たちが心に刻むべき大切な真理があります。それは、「希望があるところに未来がある」ということです。未来とは、自分の手で完全に描くものではなく、神とともに歩みながら少しずつ形づくられていくものです。神が共におられるなら、たとえ道が曲がりくねって見えても、その先には必ず光があるのです。私たちが希望を失わない限り、神は新しい道を開く力を与えてくださいます。神の希望は、私たちの弱さを打ち負かすのではなく、その弱さの中に働き、そこから新しい力と勇気を生み出します。

 

 どうかこの新しい年が、私たちにとって、神の光と優しさがあふれる一年となりますように。喧騒の中にも静けさを、不安の中にも平安を、涙の中にも希望を見いだす一年となりますように。そして、私たちの心の奥深くに宿る希望が、未来を照らし、私たちの歩みに確かな力を与えますように。主が新年の始まりから終わりまで、私たちを守り、導き、祝福してくださいますように。

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