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今月のメッセージ 2024

毎月の教会新聞に掲載している、司牧チームによる「巻頭言」の2024年のバックナンバーです。

2024年10月号 掲載

秋の断想

ユン・サンホ(使徒ヨハネ) 神父

 空は高く、馬も肥えるという秋です。 収穫の季節、豊かさに満ちた時期です。そして、豊かさをくださった天に感謝しながら、隣人と共に分かち合う収穫と感謝の季節です。自然に囲まれた山野と川沿いを歩きながら、流れるきれいな水を見ていると、心も豊かになってきます。様々な種類の鳥が自然と共にハーモニーを成して生きています。自由な姿と豊かさを感じることができる環境ですふと、「春に種まきをしなければ、秋に収める実が無い。」という昔話を思い出します。それに聖書の 「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く者は、刈り入れも豊かになる。 」(2コリン9・6)という言葉も心に迫ってきます。 
 

 神様から受けた数多い恩寵の賜物、この種をどれほど蒔いて、収めたものだろうかと振り返りました。私にくださった沢山の命の種、毎日の糧と時間、必要とする能力と物質、そして何よりも優先すべき、信仰の実がどれほど実っているのか反省しています。 
 

 感謝の実、奉仕の実、犠牲の実、喜びの実、愛の実、忍耐の実、平和の実、赦しの実など・・・神様がくださった大切な種をよく育てる、耕すために心の最善を尽くしたならば、喜びと実も豊かに実るはずです。それが自然の摂理であり、また 神様の祝福でありましょう。
 

 農夫が一つの種を心をこめて植えるのは実りを希望するからです。従って(それゆえに)豊かな収穫を望むのなら、それだけの真心と愛を持って種を植え、栽培しなければなりません。そうすると種が土の中で死んで芽を出し伸びるのです。
 

 これが自然の摂理、天の摂理です。もし種が土の中に埋もれて死ぬことを拒絶しまうと、聖書のみ言葉の通り、鳥たちに食べられたり、道端で落ち踏みにじられたり、乾いて死んでしまい、実を結ぶことができないでしょう。「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ12・24)。 イエス様は私たちに、その模範になってくださいました。 一粒の麦としての人生・・・
 

 晴天の秋、豊かさの中で、神様が与えてくださった種を春にどれほど蒔いたでしょうか。そして、今、収穫の準備と共に、どれほど希望と喜びに満ちているでしょうか。聖書のみ言葉を黙想しながら、雲一点もない高い青空を眺めて、感謝と一緒に反省の時間を過ごしてみたいと思います。 
 

 「あなた方の中で働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神である。」(フィリピ2・13)、したがって、「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。」(2コリン6・1) アーメン
 

※断想・・・断片的な、短い感想。

2024年9月号 掲載

聖母被昇天と日本のお盆

しろきたブロックモデラトール 
長崎 壮 神父

 去る8月15日に私たちは聖母の被昇天の祭日を祝い、しろきたブロックの三教会では多くの信者が参加し熱心な祈りが捧げられました。聖母被昇天祭は、夏の大きな祭日として今ではすっかりカトリックの信仰生活の中に定着していますが、この教義が正式に宣言され、今のように祝われるようになったのは1950年のことで、教会の長い歴史から見ると最近のことです。


 これに至る経緯を簡単に説明しますと、聖母被昇天の教義のもととなる信心は古代教会の時代からあり、6世紀にはマリアは死ぬことなく眠ったまま天の栄光に上げられたと「神の母の就寝祭」としてすでに祝われていました。15世紀に普及したロザリオの祈りの中にも栄光の第4玄義は聖母の被昇天になっています。
このように教会の歴史の中で長い間民間的な信心として大切にされていたこの聖母の被昇天を、ピオ12世教皇があらためて教義決定して宣言されたわけです。

 

 復活祭の四十日後に主の昇天を祝いますが、主の昇天と同じくマリアの被昇天も、洗礼によってキリストに結ばれ、マリアを母と崇敬する私たちのこの世の旅路を終えた後に行くべきところを示しています。
さて、聖母被昇天祭に関連して日本の教会に固有なこととして見られることに、聖母被昇天祭の日、あるいはその前後に死者追悼記念ミサや、死者のための特別な祈りを捧げる教会が多くなっていることが挙げられます。信者さんの中には「カトリック教会では11月を死者の月としているのに、なぜ8月に死者追悼祈念ミサを行うのか」と疑問を持たれる方も多くいるのではないでしょうか?


 これについて考えるとき、キリスト教が入る以前にその国で長い間に育まれた宗教的・文化的な背景というものも無視できません。


 聖母被昇天祭は一般社会(仏教)でのお盆の期間に祝われます。この期間には仕事も休みとなり、帰省によって家族がそろうため、家庭ごとに墓参りや死者を弔う行事をします。「この時期にはお墓参りを…」というキリスト教以外の社会的・文化的な慣習に後押しされる形で、日本のカトリック教会でも、聖母の被昇天によって死後の安息を想起させるこの時期に、死者追悼祈念ミサをすることが習慣化していったのでしょう。


 このようにその国固有の文化的慣習が、教会の暦に加わる例はほかにもあります。現代日本のカトリック教会では、幼子の成長を願う意向で七五三の祝いをして千歳飴を渡しますし、成人の日の前後にはミサの中で新成人のための祈りがキリスト教的な祈りによって捧げられ、共同体で祝福します。祈祷書の中にはお正月のお屠蘇の祝福の祈りまであります。


 キリスト教信仰がその国の文化に入り、根付くということは教会が社会と乖離していないという証しであり、カトリック教会の懐の深さや柔軟さを証しするしるしとして積極的に受け止めていいと思います。

2024年8月号 掲載

『利益主義』

フェリックス・マルティネス神父

7月3日、旧優生保護法は憲法違反だったとする最高裁の判決が出されました。旧優生保護法は「不良な子孫の出生防止」を目的とし、遺伝性患者に本人の同意なく不妊手術を行っても良いことにしました。1948年から1996年までの48年の間、国が認めるだけで2万5千件の手術があったそうです。歴史的判断と言えるでしょう。

私が来日したのは1981年なので、この法律がなくなるまで15年間も日本にいたのですが、その存在すら知りませんでした。おそらくたくさんの日本人も同じだったのではないかと思います。しかし、新聞などでこの事実を知った時、驚きと同時に恥ずかしい気持ちになりました。人の命と財産を守ることは国の第一の責任なのに、ここまで人の尊厳が無視されるとは…

どのような考え方から生まれた法律でしょうか。赤ちゃんが障がいをもって生まれそうだから、その誕生を止めるべきだということでしょうか。何が悪いのでしょうか。大きくなったら健常な人のように役に立つ仕事が出来ないので、周りの人に迷惑をかけ、家族や国にかける経済的負担が大きいからでしょうか。本人がかわいそうだろう等々。その手術を受けた人は、ただ体の一部を取り除かれただけではありません。心も幸せも奪われました。人を不幸にすることは、社会の利益になるのでしょうか。このようなことを考えるだ

けで、自分が情けなくなります。

利益につながるかどうかという基準で、人の価値を決める社会が根底にあったのだと思います。今もそれほど変わっていないのかも知れません。確かに、今は障がいを持っている人に対する援助は増えています。社会的な支えが形になって、見えるようになっているのは事実です。しかし、私たちの心は変わっているでしょうか。

教会の中でも、いろいろな意味で小さな人々に対する理解が深くなっています。私たちは、どんな人であれ、命を授かった瞬間から、神の子として計り知れない価値のあるユニークな存在であると信じています。例外なくどの人も幸せになるために生まれたと、神が教えてくださっています。

生産性や経済性のような、数字で計ることの出来るものにだけ価値を与える考え方は、人の一番大事な心を滅ぼすことにつながります。人に心がなければロボットと同じです。どの人も温かく受け入れられる教会、社会であってほしと思います。

数日前にこのようなことを聞きました。「悪魔の一番の仲間は、何もしない良心的な人。」

2024年7月号 掲載

『クラレチアン会、創立記念日を迎えて』

シスネロス・ハイメ神父

1849年7月16日にクラレチアン宣教会が創立され、今年は175周年記念の年となります。このことを感謝するイベントやお祝いなどが世界レベルで行われる予定です。東アジア管区では、日本、台湾、マカオ、香港、中国大陸からの各共同体の代表者が、7月27日から29日の間、マカオに集まってミサやお祝いの集いが行われます。その他に日本のグループは、7月15日に枚方のレジデンスでお祝いをします。これを機会に心から願いたいのは、新しい召命の恵みで、どうか皆様も祈ってください。

 

この機会に歴史的な一面を紹介します。初めに、会の正式な名前は、『汚れなき御心の子らの宣教会』です。会の紋章に書き入れてある言葉はラテン語です。『filii ejus, Beatissimam praedicaverunt』。その意味は「マリアの子らが聖母の素晴らしさを述べる」です。

 

また、その他にクラレットのカリスマによって、その家族としての精神を受け継いでいる宣教師たちを始め、クラレット信徒会、教会信徒の皆様が同じ歩みを進んで行くことを嬉しく思います。

 

なお現在、会の所属人数は3,021人で、その出身国は60カ国です。

 

宣教会の目的は3点でまとめることができます。

1.行うすべてのことにおいて神の栄光を求める。

2.メンバーたちは、霊的な成長及び、聖性を目指す。

3.すべての人の救いを求める中で、あらゆる手段を使用する。

 

主な働きは、御言葉の奉仕です。クラレットが望んだ殉教者の冠ですが、聖人となり、創立した家族から福者殉教は184人が数えられています。

 

会の精神について、兄弟たちが持っている得意な面を大切にしながら、互いに励まし合い、支え合い、兄弟的な交わりを育てることは大事なことです。宣教に取り組む力を尽くして、愛の賜物を育てます。

 

教皇フランシスコから励ましの言葉をいただいたことがありました。ここで思い起こして文書に書き残します。『歩ける修道会・宣教会とし、人々と共に歩んで 出向いて行く会として、神を礼拝する務めのある会の生き方に期待しています』。

 

結びの言葉としたいのは次のモット-です。『聖母マリアへの献身のもとで、神の恵みと神の祝福を願います。ただでもらったものをただであげなさい。』 

2024年6月号 掲載

『なぜ日本の教会には召命が不足しているのか』

タラン・スン・ニュ・イ神父

尊敬する皆さん

日本での教会は、世界の他の多くの地域と同様に、司祭職や修道生活への召命の困難さという課題に直面しています。様々な要因が絡んでいる可能性を認識し、感受性と理解をもってこの問題に取り組むことが重要です。この状況について断定的なことは申し上げられませんが、聖書と一般的な見解に基づいて、いくつかの考察を申し上げることができます。

まず、日本の文化的背景は、キリスト教の普及と召命の育成に独特の課題を与えています。日本には、神道や仏教などの伝統に深く根ざした豊かな文化的・精神的遺産があります。このような伝統の影響により、キリスト教が根付き、発展することは時に困難となります。マタイによる福音書(13:1-9)で、イエスは種まきのたとえを語り、土壌の違いが種子の成長にどのような影響を与えるかを説明しました。同様に、日本の文化的土壌が、必ずしも召命の成長を助長するとは限らないと思います。

次に、司祭職や修道生活の厳しさが、召命に応えようとする潜在的な候補者を躊躇させているかもしれません。マタイによる福音書(19:16-30)で、イエスは、イエスに従うために財産を手放そうとしない金持ちの青年に語りかけています。この箇所は、弟子としての根本的な要求を受け入れることの難しさを強調しています。日本社会は学問的、職業的な成功に重点を置いており、若者には一流とみなされる職業や、経済的に安定した職業に就くようにプレッシャーがかかっているのかもしれなせん。このような世俗的な成功に重点を置くことで、修道生活や司祭職への召命を見極めることが難しくなっている人もいると思います。

さらに、日本の人口減少や人口構成の変化も召命不足の一因かもしれません。ルカによる福音書(10:2)で、イエスは弟子たちに「収穫は多いが、働き手は少ない」と言われました。この箇所は、召命のために祈り、教会への奉仕生活を考えるよう、積極的に他の人々を招くことの重要性を思い起こさせます。人口統計的な課題に直面している今、日本の教会は召命を促進し、識別のための支援的な環境を整える努力を倍加することが不可欠です。

最後に、日本は非キリスト教徒が大半を占める国であり、キリスト教を信仰している人は人口のごく一部に過ぎません(約0.7%)。このような状況では、カトリック信仰に触れる機会は限られ、若者が教会と出会い、その中で召命を見極める機会も少ないのです。彼らを支え励ます強力な信仰共同体がなければ、教会での召命を考える可能性は低くなるかもしれません。

このような課題に対応するために教会は、召命のために祈り続け、神の召命に心を開き、識別する文化を積極的に促進することが求められています。これには、若者が有意義な形で信仰と出会う機会を提供すること、識別のためのリソースやサポートを提供すること、教会内の共同体意識と帰属意識を育むことなどが含まれます。

結局のところ、日本における召命の欠如は複雑な問題であり、祈り、識別、そしてその状況において教会が直面しているユニークな課題に取り組む意欲が必要なのです。神の恵みと聖霊の導きによって、日本の教会が、将来の神のご計画に信頼しつつ、召命を識別し、召命に忠実に応え続けることができますように。

2024年5月号 掲載
『復活の恵みのプレゼントを得るために・・・』
ユン・サンホ神父

 40日間の生き方の期間を通して永遠の命が保障される復活のために、神を信じる私たちが毎日の生活の中で実践しなければならないことは何でしょうか。それは、私たちを暗闇と死に導き追いやる虚しいこと(怒り、貪欲、嫉妬心など)を捨て、主イエスの慈悲心、善良さを心より求めるよう祈ることです。「私たちのすべての考え(怒り、嫉妬心、貪欲)を、その方の十字架の前に屈服させ、ただ、十字架の愛と慈しみを求めなさい。そうすれば必ず恵みを享受(きょうじゅ)するでしょう。」(聖クレメンス)私たちの生活の中で、信仰者としての生き方は、愛を生きることです。もちろん簡単ではなく、易しいことではないことを私たちは知っています。

 それは主が私たちに教えてくださり、直接に歩まれた主の道であり命です。十字架の犠牲と死ぬことなしに復活はないからです。この命、生き方とは神の愛と隣人愛です。具体的な方法としては聖書の御言葉を生活化することです。特に主が直接言われた、「ここにいる最も小さい兄弟、困難に直面している兄弟を助けることは、私にしてくれた事だ。」と言う御言葉です。(マタイ25・31-46)

 隣人を自分のように愛することを実践する事は大変しんどいことかもしれませんが、しかし主はその愛を基礎とし、基準としてすべての審判をすると言われました。主が教えてくださった生き方を通して理解できるように、主は、自分の敵にさえも、慈悲を施しました。貧しい人、お腹の空いた人たちに食べ物を準備し与え、病気の人たちや力のない人たちのためにいつもどんな時でも助けてあげ、癒されました。

 いつも、助けを求める人を拒絶することなく、愛を持って助けてあげました。このことが主が教えてくださった「復活の生き方」ではないでしょうか。長い間コロナのパンデミックや地震のせいで、貧しく困難の中にある人たちの生活はより苦しくなり、そのような人たちが増えています。また、世界のいたるところで戦争と災害が起こっています。

 豊かに沢山持っている人たちには何の心配もないかもしれませんが、貧しい人たちはより辛く、苦しみを受ける一日一日です。私たちはこのような人たちを直接助けることが出来ないとしても、たゆむことなく祈り続け、信者としての生き方を忘れないで生き、生活し、意識して愛を実践する時、私たちは「復活の命」を生きることになるのです。

 毎日毎日の私たちの命は、主がくださる恵みであり、賛美と感謝であり、それこそが私たちが「復活の命」を生きるということであり、永遠に生きることにつながるのです。

主は言われます。「私は復活であり命である。このことを信じ実践する人は幸いである。」

(ヨハネ11・17-27)「生きていて私を信じる者は永遠に生きる。」アーメン。

2024年4月号 掲載

『復活の光の中を歩みだそう』

長崎 壮神父

 しろきたブロックの皆さま、主のご復活おめでとうございます。

 一年で最も喜びと希望の溢れる復活節の始まりです。

 日本に暮らす私たちキリスト信者が復活節の喜びを強く実感できるのは、この時期が日本の春にちょうど重なるからです。新しい生命の喜びを生きることをすすめる教会の暦にまるで呼応するかのように自然界では木々や花々が新しい命を生み出し、仕事場では新年度が始まり、そして学生にとっては新学期、入学式の季節に重なります。

 しろきたブロックのふたつの教会では、今年の復活徹夜祭で洗礼式が行われ、あらたな兄弟姉妹が生まれたことも大きな喜びですが、この喜びは受洗者を出した小教区だけのものではなくともに歩んでいるしろきたブロック全体の皆さんの祈りの実りとして受けとめたいと思います。

 しろきたブロックの宣教・司牧に携わって一年が過ぎた私ですが、しろきたブロックのよさは、それぞれの教会が特徴を持っているということです。

 大東教会は河内キリシタンの誕生の地であり、それはそのまま大東教会のアイデンティティでもあるでしょう。河内キリシタン祈念祭の開催や、三月には大東市主催の武者行列に教会側も積極的に参加するなど、地域と社会に開かれた教会としての印象を受けます。

 門真教会はフィリピンの信徒やベトナムの青年信徒が多く集まる教会で、多文化共生のモデルの教会となっています。日本の教会全体の高齢化が進む中で若い外国籍信徒が多く集まり、典礼にも活気を与えてくれています。言葉の壁という問題もありますが、今後は日本人信徒と外国籍信徒が互いにもっと交流を深めていく方法を模索していきたいと思います。

 今市教会は宣教的な教会と言えるかもしれません。立地に恵まれていることもあり、日中多くの信者さんが教会に立ち寄り、出入りします。十月の毎日のロザリオの祈りにも多くの方が参加し、勉強会や文化教室などが多いこと、幼稚園との連携から教会学校がさかんなのもこの教会の特徴でしょう。

 最後になりますが、昨年秋に私たちの教区は大阪高松大司教区となりました。まだ皆さんは実感がわかないかもしれませんが、この春から本格的に動き出すことになります。

 そのひとつとして、わかちあいと識別を段階的に繰り返してきたシノドスも終盤に入り、大阪高松版のシノドスガイドブックも近々発行されることになっています。それらを参考にしながら、大司教区の方針を共有し、それぞれの小教区がその特長を生かし、司祭・信徒が祈りと対話を通してともに識別し、あらたなチャレンジをしていければと願っています。

 皆さん、復活の光に照らされながらともに歩んでまいりましょう。

2024年3月号 掲載
『平和を作るのはだれ?』
フェリックス・マルティネス神父
 ウクライナやガザ地区を始め、ニュースに出てこない世界中の戦争のことを前にして、平和について考えます。
 私たちは毎日、学校で勉強すること、会社に行って働くこと、一日3回食事し、病気になったら医者に診てもらえること、家族や友達と笑顔で楽しい時間を過ごすことなどが出来て、日本でよかったなと思います。
 今戦争に苦しんでいる国も以前は平和でした。日本はいつまで今のように平和でいられるのだろうかと心配になります。平和は当たり前ではありません。作られ、守られていくものです。今は「大丈夫だろう」と思っていても、数年後もまだ平和に暮らしていけるのでしょうか。
 この頃、ミサの中だけでなく、きっと個人的にも、世界の平和のために祈ることが増えていると思います。素晴らしいことです。しかし、気になることがあります。「神様、なんとかしてください」と祈っているような気がします。「神様任せ」といったところでしょうか。
 神様も私たちに願っていることがあるような気がします。「困っている人たちを助けるのはあなたたちですよ」、「戦争を終わらせないといけないのはあなたたちですよ」と。神様が奇跡的(魔法的?)に私たちの問題を終わらせることはありません。「あなたたちが頑張ろうとすれば、私も手伝うよ」と神様が教えているのです。
 聖書には「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」と書いてあります。聖書でいう平和は、ヘブライ語でシャロームです。言葉の由来とその意味は、「回復する」、「和解する」、「バランスを取り戻す」という意味です。誰かともめた後、「すみません」と謝って仲直りするとき。困っている時に、誰かに助けてもらって立ち上がれた時。このような時にはシャロームと言います。
 悪いことや悲しいことがあって、それが克服され、調和が取り戻されたときに、「シャローム」になるのです。いろいろな逆境から学び、乗り越え、いい状況を取り戻した人が「平和を実現できる人」です。
 平和を実現する人になるのには、どうすればいいでしょうか。人だけではなく、自然や動物の命の尊さを知ること。自分のいいところ、相手のいいところに気づき、認めあうこと。お互いにゆるし合って、協力し、励まし合うこと。問題があれば、自分の思いを伝え、相手の思いを受け入れること。自分より弱くて小さな人を思いやる心を持つことです。
意見が違う時、暴力やいろいろな形で圧力をかけたりすることで解決しようとしたらケンカになり、両方とも苦しむことになります。世界のあちらこちらで戦争や紛争の悲しいニュースが毎日伝えられ、罪のない一般市民や子どもが犠牲になっているのを見ていると、平和の難しさを感じますが、武器や軍隊による問題の解決は、復讐の連鎖や妬み、死と破滅しか生み出しません。
 「理想としては分かりますが、現実は違いますよ」と言われそうですが、わたしはイエス・キリストこそ、世界一の理想主義者だと思うのです。 
2024年2月号 掲載

『聖霊の導きを祈る』

ハイメ・シスネロス神父

 一般的に、聖霊に向かって祈る習慣が無いと言われます。しかし祈りの世界に介入して下さる時に、聖霊が祈らせてくださるとあり、私たちは自由に祈れると確信します。

 『聖霊 来てください。待降節から主の公現まで、私には次のような気付きがありました。感謝します。教会の典礼に触れて感銘を受け、その喜びを捧げます。それがあまりにも深い神秘の恵みだと今も味わいながら、兄弟姉妹である皆様に伝える力を感じさせてください。聖霊の貴重な働きによって、神の御独り子の受肉の神秘に大きな喜びが注がれることを感謝します。

 

 また、お告げを受けた乙女マリアに天使が述べた言葉を、新たに心に留めたいと思います。『聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる』(ルカ1:35)。その言葉を聞いた乙女マリアは大変な決断をし、神に選ばれたことを受け入れて、『わたしは主のはしためです』と告白しました。     

そうして聖霊の助けによって、聖母は平和な心となり、イエスを生んだ のです。聖霊に感謝を致します。ここまでがわたしの祈りです。主イエス・キリストの名によって、アーメン。』。

 さて、主の降誕のミサをささげて感じたことが三点あります。

 

一つ、神様が人間に最も近いものとなった恵み。それはやはり御子の受肉の実りと信じます。

 

二つ、神は母のような優しさを示され、人間となった御独り子に出会わせてくださり、一人一人の心の中に、主イエスの誕生の器になれる招きを受けた恵み。

三つ、神は共にいてくださり、救い主を送って下さった。『神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。』(ヨハネ3:16)とあり、それをさらに深く信じました。

 

 また、聖家族のミサでは、ナザレの家族への憧れを強く感じました。聖家族とはイエス、マリア、ヨセフ、三人の絆です。その三人を迎えた二人の人物が聖霊の導きによって神殿に入りました。正しい人で信仰が厚いシメオンとアンナという女預言者で、二人は共に賛美しました。神殿での式が終わり、ナザレに帰ったあと『幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。』とあります。

 

 最後に、2024年のモットーとして聖霊に心を開いて毎日3回ほど、『聖霊来て下さい』との祈りの後に行動することを勧めます。

2024年1月号 掲載

『人々の間でのクリスチャンの生きた模範』

タラン・スン・ニュ・イ神父

尊敬する皆さん

 イエスはこう言われました。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。それこそ律法と予言者である」(アタイ 7・12)。それで今回、クリスチャンの生きた模範についてお話したいと思います。クリスチャンの信仰は、他人への愛と奉仕、誠実さ、そして道徳的な生き方を強調しています。これらの価値観は、私たちの日常生活において模範的な行動を生み出しています。

 

 まず第一に、クリスチャンの生きた模範の中で最も重要なものは、愛と寛容です。私たちは他人を理解し、受け入れ、慈悲深い心で接することを大切にしています。この愛と寛容の精神は、教会そして社会全体に希望と和解をもたらし、人々を結びつける力を持っています。

 

 次に、奉仕の精神はクリスチャンの模範に不可欠な要素です。信仰に基づき、自分の才能や資源を使って他者を支えることは、クリスチャンにとって喜びの源となります。私たちは教会において積極的な役割を果たし、奉仕を通じて共同体を強化しています。

 

 誠実さと正直さもクリスチャンの生きた模範の一部です。信仰において真実を追求し、他者との関係において正直であることは、信頼の基盤を築き上げます。これによって、クリスチャンは個人的なつながりだけでなく、広いコミュニティとの信頼性のある関係を築いています。

 

 クリスチャンの生きた模範は道徳的な態度を反映しています。正義、公正、慎み深さがその核となり、これらの価値観は、私たちが直面する倫理的な問題に対処する際の指針となります。このような態度は、教会全体の調和と安定に寄与します。

 

 最後に、感謝と、感謝の態度がクリスチャンの模範の一環です。神への感謝と他人への感謝は、謙虚さと共に生きる、クリスチャンの特徴です。恵みや愛を受け入れるだけでなく、それを分かち合い、他人に対して感謝の気持ちを表すことが求められています。

 

 総括すると、クリスチャンの生きた模範は愛、奉仕、誠実さ、道徳的態度、感謝の心が結びついたものです。これらの価値観は私たちが信仰の根本に立って行動し、他人との関係において、愛と奉仕の心をもって生きる原動力となっています。これは単なる宗教的な信念だけでなく、広く共感される人間性の理想を提供しているのです。

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