今月のメッセージ 2022
毎月の教会新聞に掲載している、司牧チームによる「巻頭言」の2022
年のバックナンバーです。
2022年12月号 掲載
『待降節を迎え、召命に応え、使命を果たしましょう』
グエン・バン・ナン神父
待降節といえば、私たちはクリスマスが近いことを思い、 クリスマスを待ち望みます。しかし待降節とは神様が 天から下り、人とされたことを祝い待つ時です。主の 誕生の記念を通して、 私たちはキリストの来臨を待ち 望むのです。では、具体的に何を待ち望んでいるので しょうか。それは主キリストによってもたらされる、 希望、信仰、喜び、平和です。この望みは待降節の 蝋燭に表れます。1 つ目の蝋燭は希望、2 つめは信仰、 3 つ目は喜び、最後の蝋燭は平和という意味です。つまり、 イエス・キリストとは私たちの希望、信仰、喜び、平和 そのものなのです。待降節を通して、教会は私たちを 招いています。兄弟姉妹にイエス様、すなわち、希望、 信仰、喜び、平和をもたらしましょう。その召命、使命を 果たすためにはどうすればよいでしょうか。
教会は私たちをマリア様に倣うように招いています。 マリア様は希望、信仰、喜び、平和を得、希望、信仰、 喜び、平和を人にもたらすための 5 つのステップを 教えてくださっています。
まず 1 番目のステップは、日々み心を探し、平和を 実現する人となる「召命」を感じることです。そのために マリア様は子供の頃から御自身を神様に捧げ、ずっと 神殿に住んでいました。そうして、人に平和をもたらすと いうマリア様の召命は生まれました。私たちもマリア様と 同じようにしなければなりません。日々の出来事の 中にみ心と命の意味を探し、み言葉を聞き、お祈りで 神様に出会いましょう。
2 番目のステップは、み心を見つけたら、一生懸命応え、 平和を実現することです。平和を実現するには、大変な ことがたくさんあるでしょう。福音の場面に出て来る マリア様のように、私たちも時々「戸惑い」を感じ、どうすれば良いか分からない時もあります。マリア様は 天使に言われました。「どうして、そのようなことが ありえましょうか。私は男のことを知りませんのに」。 皆さんにもマリア様のようにとまどった経験がおありかと 思います。皆さんも神様に尋ねるでしょう。「家族や 教会のために一生懸命仕え、愛し、たくさん犠牲を払って いるのに、どうして文句を言われたり、いやなことばかり 返って来るのでしょうか」。私たちは不安になると、 家族や教会を「諦め」ようとします。これが 3 番目の ステップです。
マリア様が悩んでおられる時、神様はいつもマリア様と 共におられました。これが 4 番目のステップです。 「天使は答えた。聖霊があなたに降り、いと高き方の力が あなたを包む」と。神様はマリア様に印を与えられました。 「エリザベトも年をとっているが、男の子を身ごもって います。」このことを通して、私たちは招かれています。 家族や人に平和をもたらすために苦しむ時、神様に 自分を捧げ、神様を信頼しましょう。そうすれば、 「神の力」が私たちを包んでくださるはずです。
5番目のステップは「神にできないことは何一つない」と 信じ、平和をいただき、人に平和をもたらし、平和を 実現し続けることです。つまり、み言葉の中で教会は 私たちを招いています。マリア様にならい、神様に 「はい」と言った時、何が起こっても、結果を喜びましょう。 平和であるために、互いに分かち合い、愛し許し合い ましょう。誰かが言った通り「平和は神から人間への 贈り物ではなく、人間同士の贈り物であることを忘れては いけません。」マザーテレサが教えてくださっています。 「世界平和のために今日できることはなんでしょうか。
まず 家に帰って、家族を愛してあげてください。」アーメン。
2022年11月号 掲載
『恐れないで 生きる知恵を目指す』
ハイメ・シスネロス神父
11 月は秋のただ中であり、読書が楽しめる時です。 またカトリックでは伝統として死者の月と呼ばれ、 召された人々の為に祈る習慣があります。皆さん も実践する努力をしましょう。『恐れないで』豊 かな暮らしをし、あの世に行く準備も大切なことで、 そのために霊的な成長を願いたいと思います。
さて、以上について六つの項目を挙げて、勧めの 言葉の内容を紹介し、簡単に説明します。 一つ、“時間を恐れないで!誰もこの世では 永遠に過ごせない”神様は毎日、時間の恵みを下 さいます。素敵な恵みではありますが、楽しめる 時もあれば、苦しい時もあります。聖アウグスチ ヌスのことばは考慮に値すると思います。『時間 の長さについては、過去、将来のどちらも示すも ので、それによって記憶と予告が生じるものとな ります。両方とも現在においてのみ存在するもの であります』と。また、詩編によって新たな観点 から光を求めます。『千年といえども、御目には 昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。あなた は眠りの中に人をただよわせ、朝が来れば、人は 草のように移ろいます。朝が来れば花を咲かせ、 やがて移ろい、夕べにはしおれ、枯れて行きま す。』(詩篇 90、4-6 節)。いのちと死との間に 絆があり完成されることを信じます。
二つ、“怪我を恐れないで!それによって強く なれます”怪我だらけの状態になっても、子ども は成長して大人になるのです。
三つ、“泣くことを恐れないで!魂が清められ ます”赤ん坊は生まれた瞬間に泣き出します。 人生の旅が始まったしるしです。そのうち、喜び の涙に変えられる時があります。
四つ、“挑戦を恐れないで、すばやくするのです” 諦めではなく、積極性の豊かな実りが生じます。
五つ、“間違いを恐れないで!知恵を増すきっ かけです”失敗は成長のもとだとの考えです。
六つ、“寂しさを恐れないで!神はいつもあな たと共におられます”寂しく感じる時、人間は貴 重な経験が出来ます。自分を見つめて、自分の内 に神の臨在があることが味わえるのです。 以下は六つの点を入れた祈りです。
『主よ、感謝します。わたしたちが恐れること なく、知恵を身に付けるように支えて下さい。時 間の恵みには、永遠の思いを悟らせてください。 危険から守られ、傷跡が癒され、涙が微笑みに変 わりますように。労苦に力づけられ、迷いに道が 開ける喜び。孤独の時には御国を思わせてくださ い。アーメン』
2022年10月号 掲載
『河内キリシタンから九州のキリシタンへ』
竹延 真治 神父
本来"キリシタン"という言葉から連想するのは、大友宗麟(そうりん)、大村純忠(すみただ)、有馬晴信(はるのぶ)などの九州の有名なキリシタン大名と、彼ら領主が改宗することによってキリシタンとなった武士やその領民たちのことであろう。ところがわたしは彼ら九州のキリシタン大名たちの名前は聞いたことがあっても、その歴史をほとんど知らなかった。自分の住んでいる大阪の地のキリシタンのことだけにしか興味がなかったのだ。
その原因の一つに、西九州の地形の複雑さが挙げられる。九州出身の人以外で長崎県の概略図を書ける人がはたしているだろうか? 狭い海峡を通して大村湾が東から侵入し、また長崎県の島原半島と熊本県に属する天草諸島の間からは島原湾(奥に行くと有明海と呼ばれる)が大村湾と逆方向から入り込んでいる。それらによって作られている島原半島や西彼杵(にしそのぎ)半島の存在と全国一多い島の数は、地理好きなわたしをも長崎県の地図を頭に浮かべることを難しくする。九州キリシタンの話を読んだり聞いたりしても地名が出てくる度に、「どこにあるのかなあ?」と思った途端、話がつまらなくなってしまうのだ。
最近、わたしの中で九州地方の地図の空白部分が埋められた。きっかけは、河内キリシタンのその後を追跡するために9月初めに休暇をもらって出かけた一人旅だ。1564年の飯盛山城での集団洗礼に始まった河内キリシタンが栄えたのはわずか20年だった。豊臣秀吉によるバテレン追放令やその他の政治事情により、一部の河内キリシタンたちは宣教師を追うかのように九州に移動した。その中でジョルジ結城(ゆうき)弥平次(やへいじ)という一人の河内キリシタンの足跡(熊本県山都(やまと)町の愛籐寺(あいとうじ)城址・長崎県島原市の金山(かなやま)城址)をたどるのが今回の旅の目的だったのだが、そのついでに熊本県の天草からフェリーで長崎県に渡り、島原、長崎、外海、平戸、大村をレンタカーで駆け抜け、いくつかのキリシタン関係の資料館を見学した。おかげで、西九州の地形とキリシタン大名の概略がわたしの頭の中に入った。大阪のキリシタンとの関係が深いこともわかった。河内キリシタンのことを知った時がそうであったようにこれからは九州のキリシタンについても、ワクワク・ドキドキで学んでいけそうな気がする。
2022年9月号 掲載
『人生の修行』
フェリックス・マルティネス神父
苦しいことも あるだろう
言いたいことも あるだろう
不満のことも あるだろう
腹の立つことも あるだろう
泣きたいことも あるだろう
これらをじっと こらえてゆくのが
人生の修行である
最近、レストランで昼ご飯を頂いていたら、麦茶の 入ったコップに上記の言葉が書いてあった。誰かと 一緒であれば楽しい話のため気づかなかっただろ うが、一人だったので目に留まりました。 私としては、今、特につらい時期を忍んでいる わけではないし、この言葉は聖書ではないし、だれが 書いたかも分かりませんが、いろいろと考えさせ られました。
子どものころクラレチアン会の小神学校に入った ころ、甘いものを我慢すること、だれもしたがら ないことを率先してやること、ひざまずいて祈る こと、様々な犠牲をすれば神に近づくことになる、 信仰は深くなる等と、よく勧められたことを覚え ています。自己コントロールの訓練になった事は 認めます。その意味では感謝しています。でも ワザワザ自分から犠牲にできることを探し、体を 痛めるようなことは神様が喜ばないのではないか と、今思います。
「これらをじっと こらえてゆくのが」の 「こらえる」は、「苦しみや痛みなどに耐える、 我慢する」という意味です。確かにそのような つらい体験に耐えて乗り越えることによって、我慢 強くなると同時に、学ぶことは多いと思います。 人のことも、自分についても。何かの学びにつな がった時は「人生の修行」と言えるでしょう。 こちらの方が納得。
先に言いましたように、人間の痛みや苦しみを 神様は喜ばないと思いますが、もしその時、自分が 強くなったり、学んだりすることになれば、それを 神様は喜ぶはず。わざわざ探さなくても、多かれ 少なかれ人生には必ず逆境の時がやって来る。 そのようなことをプラスに変えられるならば、神様の 愛のしるしとして感じることになると思います。 感謝もできるようになります。
これについて考えていると、ある詩篇を思い出し ました。詩篇126・5-6です。「涙のうちに種まく 人は、喜びのうちに刈り取る。種を手に涙を流して出ていく人は、喜びのうちに刈り取る」。きれいな 言葉ですね。意味のある涙であれば、必ず恵みに 自分を導いてくれる。ことの流れの中に神様の働き 掛けがあって、受け止め方次第で自分を磨くとともに、 幸せにつながることを信じたいところです。
2022年8月号 掲載
『今日、神の働き手となるには…』
(イザヤ 66・10-14 ; ガラテヤ 6・14-18 ; ルカ 10・1-12、17-20)
グエン・バン・ナン 神父
このテーマについて思い巡らすと、修練者だった頃を思い出します。その頃、毎週日曜日に20 ㎞も離れた所まで、歩いて信者さん たちを訪問しなければなりませんでした。福音でイエス様が72 人の 弟子に命じられたように、私も「財布も袋も履物も持って行くな。 その家に泊まって、そこで出されるものを食べ、また飲みなさい」と いうような状況でした。私ともう一人は天気に関わらず朝 4 時半に 出発し、山々を登って行きました。
往復40km を8 時間で歩きました。最初は本当に苦しみました。 特に雨の時は、長い間歩くので全身が痛くなったり、足にいっぱい 怪我をしたり、疲れました。そんな時、「なぜこんなことをしているのだろう。どんな意味があるのだろう」。と私は自問し思い悩みました。もし、苦労したり体をきたえるためだったら、毎日 熱心に働いたり、運動することでは足りないのでしょうか。
実は、修練の間、私は六匹の豚を飼っていました。豚のために、 一日3回も苦労して野菜を探し、エサを作りました。また、一日2回、 豚舎を掃除し、体を洗ってやりました。ですから、豚はメキメキ 大きくなりました。もし、遠方の信者さんたちを助け、御ミサと 典礼の準備をするだけのためだったら、神父さんと一緒に、私も車に 乗って行ってはいけなかったのでしょうか。そうすれば、御ミサや 分かち合いのために、もっと時間ができ、もっと深い分かち合いが 出来たのではないでしょうか。また、もし、将来の宣教のために体を 鍛えるのだったら、その意味はありません。現代では宣教のために、 歩く必要はありません。どこでも乗り物がとても便利だからです。 苦しい経験をし、思い悩んでも、正しい理由を見つけられません でした。悩んでいる時に、今日の御言葉を読み、納得しました。
神様が私たちに望まれるのは、人にお金、名声、権力をもたらす のではなく、神様に出会い、見守られ、愛され慰められた経験を もたらし、分かち合うことです。人を喜ばせるのは物ではなく、心を 尽くして分かち合い、関心を持って、愛し許すことです。預言者 イザヤはその喜びを表されました。「あなたたちは乳房に養われ 抱いて運ばれ、膝の上であやされる。母がその子を慰めるように 私はあなたたちを慰める」と。
つまり、イエス様は、福音宣教を自分たちの中心にすることを 望まれています。そうすれば、私たちは人に、神様の愛や平和を もたらすことが出来ます。また、イエス様は私たちを家族や隣人に 対して派遣しています。それでは、何をすれば良いのでしょうか。 まず、家族や隣人のために祈り、必要なものを神様に願いましょう。 また、彼らに愛と平和をもたらしましょう。家族や隣人にこうすれば、 他に財布も袋も履物も持っていく必要はありません。私たちの本当の 幸せとは、神様が私たちの心の中におられ、愛し慰めてくださる 経験をすることです。
これに気付くならば、周りの人への犠牲や苦労は私たちの喜びに なるはずです。また、それは私たちが自己愛を捨て、世への欲望 から離れることを助けてくれます。聖パウロが言われたように、 「この私には、私たちの主イエス・キリストの十字架の他に、 誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世は 私に対し、私は世に対してはりつけにされているのです。割礼の 有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」。 と。言い換えると、御心とは、福音宣教をする時、私たちが何にも 手にせず、人の表面を見ず、傷みの中、悪口を言われる中、苦しみの 中に神の愛や慈しみを探し感じ、自身を新たにし、神の愛や慈しみを 証しすることです。
また、イエス様は私たちを招いています。よりそい、ただそばに いることを大切にしましょう。たとえば、入院している方にお見舞いを する時、美味しいものをたくさん差し上げる必要はありません。 病人は何にも食べられないからです。また、自分の良いことについて 話さないこと。病人は自分の健康のことだけを心配しているからです。 特に、病人に何をするべきかを上から命じてはいけません。何を するべきかは先生が決められるからです。ですから、何ももたず、 ただそばにいて、慰めや励ましをもたらしましょう。 それに、イエス様の弟子たちへの言葉には他の意味もあります。 それは困難の時、神様を信頼し、互いに頼るようイエス様が招いて いるということです。つまり、今日のみ言葉によって、教会は 私たちを招いています。神の働き手となり、兄弟姉妹に喜びや平和を もたらしましょう。神様や兄弟姉妹に仕えるために「はい」と言い、 その結果を喜んで受け入れましょう。アーメン
2022年7月号 掲載
『典礼暦に触れて 7月の祝い』
ハイメ・シスネロス神父
今回、7月の記念日や祝日の中から、三つのみを選びました。一つ、1日:福者岐部司祭と187殉教者。一つ、16日:カルメル山の聖母(クラレチアン会の創立)。一つ、26日:聖マリアの両親 聖ヨアキムと聖アンナ。
一、福者ペトロ岐部と187殉教者ですが、日本の教会の歴史において、司祭と多くの信徒の殉教者誕生の記念すべき祝いであり、聖人になるよう立派な証が残され、聖人となる運動への関心をよび起こすきっかけになると良いですね。
二、聖アントニオ・マリア・クラレットは、1849年7月16日スペインのヴィック市に於いて5名の司祭と新しい家族となる宣教会を創立しました。
クラレットは自身が抱いたイメージとそのコミットを次のように描いています。『使徒的宣教師となるため、主イエス・キリストが、御父・神の派遣者であり、使徒たちが主イエスの派遣者であるように、自分たちが全世界に行って父である神を知らせ、主キリストを宣べ伝えて御国の訪れを知らせるのです。そのため第一の手段はみ言葉の奉仕であり、第二の手段は主イエスや使徒たちが取り組んだように、村から村へと歩き、質素に生きることです』。
三、宣教会の唯一の狙いは神の最大の栄光であり、人々が救いに臨むために回心を起こすことです。クラレットは次のように神に祈りました。『神よ、ほめたたえます。わたしたち六人の僕を選んで無原罪のみ心の子たちとしてくださったことに感謝を捧げます』。そしてマリア様にも、『尊い母マリアよ、わたしたちをあなたの子として受けいれてくださって幸せです。どうか母マリア、あなたの寛大さに応えて、より謙遜、より熱心に、より人々の救いを心から望み、毎日その務めが出来ますようにお願いします』。
クラレット自身の具体的なコミットを示す祈りを作成しました。共に唱えてみませんか。『わたしの主、わたしの父よ。わたしがあなたを知っているように、あなたがすべての被造物に知られますように。わたしがあなたを愛したように、あなたがすべての被造物に愛されますように。わたしがあなたに仕えたように、あなたがすべての被造物に仕えられますように。わたしがあなたを賛美したように、あなたがすべての被造物に賛美されますように』。
聖母マリアの両親の名前は知っていますが、マリア様の行いはあまり知られていません。マリア様が父母を敬ったように、わたしたちも同じ務めに取り組んで、親に感謝し、相応しい贈り物や祈りを奉げたいところです。もうすでに召された親もおられれば、この世での人生を送りながら愛してくれている親もおられます。
7月、この機会にみなさんも実践してみませんか。
2022年6月号 掲載
『まさかわたしが猫を好きになってしまうとは』
竹延 真治神父
大学で獣医学を学び、家業の養豚業を継ごうと実家の養豚場で働き始めたわたしにとって、猫は大敵だった。なにしろ猫はトキソプラズマ症という人畜共通伝染病の終宿主、この病気に感染した猫の糞からは、オーシスト(卵のようなもの)という形態の原虫が排出され、オーシストに汚染された餌から中間宿主の豚が感染し、その豚肉を半生で食べると、人間もトキソプラズマ症に感染すると大学の講義で習ったのだから。
養豚業者は安全な豚肉を生産するのが使命だから、妊婦さんが感染すれば流産を引き起こすことさえあるというトキソプラズマ症を豚に持ち込まないためにも、養豚場への猫の侵入は防がねばならない。“猫を見れば敵と思え!”をスローガンに、敷地内で野良猫をみかけると作業を中止し、身近にあるスコップや棒を手に取り威嚇(いかく)しながら猫を追い出した。身についた知識と習慣は恐ろしいもので、それから数十年が経ち、神父という異業種に就いたにもかかわらず、修道院の駐車場などで猫をみかけるとついつい追い払おうとしてしまうのだった。
そんなわたしが、このコロナ禍の間に猫が大好きになってしまったのだ。きっかけは、何気なく見ていた“世界ネコ歩き”というテレビ番組。はじめは岩合光昭(いわごうみつあき)さんという動物写真家が地面に這いつくばって猫を撮る姿にプロ意識を感じ、好感を持ったのだが、しばらく見続けていくうちに、猫のさまざまなしぐさにも心が惹かれるようになり、しまいには猫が大好きになってしまった。最近は寝る前にユーチューブの動画で子猫のかわいいしぐさを目に焼き付け、そのままベッドでまどろむのがわたしの就眠儀式となってしまった。先日は、初めて保護猫カフェを訪れ、膝で眠る黒猫を愛撫し、癒された(依存症になってしまう恐れがあるので一度しか行っていない)。
最後に、なぜ教会ニュースの巻頭言に「猫嫌いだった神父が猫好きになった」という、信徒の皆さまにとってどうでもよいことを書いたかを説明しよう。ふだんわたしは、「愛することと好きになることは別ですよ。愛するとは人を大切にすることです。嫌いな人を大切にすることが本当の愛ですよ!」という説教をたびたびする。しかし、嫌いなものが好きになる、という別ルートをも神様は準備されているかもしれないと思うようになったからだ。レベルは全然違うが、パウロの回心も彼にとって“憎きイエス”が突然好きになってしまったということかもしれない。だとしたら、ロシアのプーチン大統領が突然ウクライナを好きになるような、超裏技を神様はやってくださらないものだろうか?
【筆者註】:くれぐれも猫を飼っている方がこの記事を読んで、トキソプラズマ症が怖くなり猫を捨てたりしませんように!衛生管理の進んだ日本では、猫は室内で飼っていればほとんどトキソプラズマ症感染の心配はないようです。ただし、妊婦さんはわずかですが、トキソプラズマ症の感染により流産などの可能性があるので、野良猫の糞便が付着しているおそれがある野外の砂場で砂遊びをした後などは、よく手を洗うことが大切です。また、どんな人でも豚肉を食べる時は半生で食べない方がいいと言われるのは、万が一豚の筋肉内にトキソプラズマ原虫が寄生していたとしても、原虫は加熱で容易に死んでしまうためです。
2022年5月号 掲載
『5 月、花の月、マリア様の月』
グエン・バン・ナン神父
皆さんご存知のように、毎年 5 月になると、世界中 のカトリック信者がマリア様にお花を捧げます。私も 毎年楽しみにしています。私は子どものころ、5 月の 間中、毎日、お天気に関係なくお花をつんでは教会に 持っていって、ロザリオをする前にマリア様の祭壇に 捧げていました。そうすると、心が喜びでいっぱいに なりました。そのたびに、マリア様が私に笑顔をくだ さっているように感じました。また、教会ではマリア 様のためにお花の祭りをお祝いします。ですから 5 月 は花の月、マリア様の月なのです。
では、マリア様と 5 月の歴史を見てみましょう。1世紀ごろ、5 月がくるとローマ人達は春の女神を敬うために、毎年花の祭りをしていました。キリスト者達は この花の祭りをまねました。小教区ではお花の祭りと してマリアさまを敬い、大豊作に恵まれるよう祈りま した。また多くの詩人や修道者達は、マリア様を賛美 するために一生懸命歌を作りました。
14 世期には 5 月 1 日にドミニコ会のヘンリー・スゾ 神父がマリア様のご像の周りをお花でかざりました。 同じように、聖フィリポ・デ・ネリはマリア様のご像 の周りに子どもたちを集め、共にお花を捧げて祈りました。17 世紀には、イタリアのナポリのフランシスコ 会の聖クララという教会で、5 月の間毎日マリア様を 敬うためにお花を捧げ、祈りを公開し始めました。午後、信者さん達が集まってマリア様を賛美し、御聖体を 礼拝しました。こうして、5 月はマリアさまのお祝い月として広まりました。 1654 年にイエズス会のナザシ神父が、毎年 5 月を マリア様への愛をあらわす月にしようと、信者さんたちに向けて本を書きました。その後、19 世紀には世界 中のすべての教会が 5 月を聖母マリアのための特別な 月としました。教皇ピオ 12 世が 5 月をマリア様の月 とすることを典礼に入れられました。教皇パウロ 6 世 も、信者達がマリア様に熱心に出会い、マリア様を愛するために応援する書簡を出されました。 この歴史を通して、私たちカトリック信者はいつの時代もどこでも、母マリアを特別に愛し、敬っていることに気付きます。私たちもマリア様と出会い、マリア様 を愛しましょう。マリア様は私たちを神様の道に導き、ともに歩み、見守り、豊かな恵みと祝福を注いでくださるはずです。
このことから、こんなお話を思い出しました。フランスのナンセニオという町に、ある夫婦がいました。 奥さんはとても熱心な信者さんで、ご主人は優しい人 でしたが信仰についてあまり熱心ではありませんでし た。そのため、奥さんは神様とマリア様に忍耐を願い、ご主人のために祈りましたが彼は何も変わりませんで した。5 月のマリア様の月になると、マリアさまを敬うために彼女は祭壇を準備し、毎日お花を捧げ、ロザリオをし、祈りました。しかしご主人は一度も彼女と共に祈りませんでした。でも彼は、仕事から帰るたびにい つも一輪の花を持ち帰り、マリア様に捧げていました。 この年の 6 月 15 日に、彼は何の秘蹟も授からないまま 突然なくなりました。奥さんは、あまりの心配のため に思い病気になり、その治療のために遠くまで行かな ければならなくなりました。そのアルスの町に着いた ら、彼女は小さな教会におられるヨハネ・ビアネイ神父と 会って、この心配ごとを分かち合い、相談する予定でした。しかし、彼女が分かち合いを始める前に、ヨハネ・ ビアネイ神父は彼女に言いました。「ご主人の魂につ いて、心配しないでください。元気だった時、彼が マリア様にお花を捧げていたおかげで、マリアさまが 彼を救って下さいました」。
この言葉を耳にして、彼女は非常におどろきました。 ご主人の行いについて彼女は神父にまだ何も言っていなかったからです。ヨハネ・ビアネイ神父は続けました。 「あなたが彼のために祈ったことと、ご主人がマリア 様のためにした良い行いによって、神様は彼を憐れまれました。死を迎えた時、彼は回心していたのです」。 ヨハネ・ビアネイ神父のこの言葉を聞いて彼女は心から 喜び、神様に感謝しました。
皆さん、このご主人は毎日お花を捧げたことでマリア さまに救われました。私たちも日々霊的なお花、例え ば、ロザリオ、家族や周りの人のためのお祈り、自己 犠牲を捧げるなら、マリア様は私たちを愛し、助けてくださるのではないでしょうか。日々マリア様を信頼して忍耐を祈りましょう。アーメン。
2022年4月号 掲載
『平和を祈ろう』
フェリックス・マルティネス神父
軍車を誇る者、馬を誇る者があっても、
私たちは、主の名を誇りとしよう。
彼らはよろめき倒れるが、
私たちは堅く立っている。
神よ、王に勝利を与え、
私たちの祈りに応えてください。
(詩篇20.8-10)
ロシアによる軍事的な侵攻が始まってから一カ月を経てもまだ続いています。今までの考えであれば、既に第3次世界大戦になっているところですが、今回周りの国は違う作戦に乗り出しています。それは、政治的、経済的作戦です。ロシアを政治的に孤立させ、ロシアの経済を成り立たなくなるようにすることです。ウクライナに防衛のための武器を送り、情報を与えても、軍隊だけは送らないことを選んでいます。
制裁を進める国も犠牲をこうむることになっても、国民の命を犠牲にしない方法です。何もしなければ、強い国の望むままを許すことになります。ベトナムやイラクのように軍事力で答えると戦争を大きくし、死傷者を増やすことになります。
今のところ十分な効果が出ていませんので、さらなる制裁が必要でしょう。また、協力する国を増やすべきでしょう。この作戦は成功すれば、歴史的な転換を生み出すことになります。軍事力によらず、国際社会の連帯による、平和的方法の確立になるのではないかと期待しています。
反対に、もし中途半端で失敗に終われば、軍事主義者の勝ちになります。
日本の平和憲法が、国際的な問題を暴力によらない解決を探ることを選んでいます。ウクライナ戦争の結果によって大きく影響を受けることでしょう。既に国会ではその議論が始まっているようです。「見てみろ。ウクライナの軍事力は弱いからロシアが戦争を仕掛けた。戦争を避けるために原子力を含め、強い軍隊を持つべき」。と言わんばかりの声が聞こえています。
なんだか、政治的な説教になってしまいましたね。すみません。私は単に、福音の価値観に基づいたことを書いただけのつもりです。政治が人の命と関係する限り、信仰とも関係するのです。私達は世界平和のために祈る時、心の中だけの霊的平和のことしか考えないなら、うその祈りになると思います。少なくとも教皇フランシスコはそのようにはっきりと話しています。
もうすぐ聖週間に入ります。イエス・キリストが十字架の上で命をささげたのは、悪の力によって世界中で苦しんでいる人々のためでした。戦争によって命が奪われる人と十字架上で死んでいくイエスの姿が重なって見えませんか。
2022年3月号 掲載
『イエスの受難の姿を観想する工夫』
ハイメ・シスネロス神父
今年は四旬節が始まる灰の水曜日は3月2日です。四旬節の40日の間、回心する歩みに新たに挑戦できます。その目的は、イエスに従って古い自分を捨て、新しい心を育てることです。また洗礼志願者と共に歩み、復活徹夜祭で入信の秘跡、洗礼、堅信、聖体を受ける大きな喜びを味わい、過越祭を迎えます。
皆様がご存じの通り、四旬節の間に教会の伝統に沿って『十字架の道行の祈り』がささげられます。その内容は、イエスの受難の姿に触れる14留の黙想によって構成されています。その中から、わたしは三つの留だけを選んで皆様にお勧めします。お家でも個人的に黙想すれば、より深く祈りを味わって頂けると思います。以下にその3留を挙げます。
第2留、『イエス、十字架を担う』。主イエスよ、それはわたしの十字架です。主よ、あなたはわたしの十字架を担われました。主はいつもわたしを助けて下さいますから、わたしの十字架は、主の十字架の重さとは比較になりません。主よ、わたしをあわれんでください。
第7留、『イエス、二度、倒れる』。主イエスよ、わたしの罪の十字架の重さは、主を倒し、おん膝を地面に打ちつけさせました。ああ、主の十字架よ、わたしに痛悔の心を起こさせ、主のみ前に深くへりくだらせてください。主よ、わたしをあわれんでください。
第11留、『イエス、十字架に釘づけにされる』。主イエスよ、あなたはおん手、おん足を釘で打ち貫かれ、はりつけにされました。主よ、十字架を仰ぐ度ごとに、わたしに主の深い愛を思い出させてください。主よ、わたしをあわれんでください。(祈りの手帳、ドン・ボスコ社)
黙想一。ゴルゴタまでイエスは歩いて行かれます。長く感じた坂道だったでしょう。イエスにとって十字架は飾りものではなく救いの道具です。『イエスは皆に言われました。“わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい”』。(ルカ9章23節)。“主イエスよ、罪人のわたしをあわれんでください”。
黙想二。十字架を担ぐイエスが進んで行く中で 三回倒れる場面があり、その中の一つをピックアップしました。わたしたちが倒れた場合、立ち上がる心を持つようになりたい。また、使徒パウロが言うように“立っている者は、倒れないように気をつけなさい”。主の祈りの一部を唱えます。“私たちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください”。
黙想三。十字架に釘付けられたイエスの姿を見つめるようにと招かれたように感じ、目を開いてイエスの姿を見つめました。キリストの、いのちと愛に留まった感じがしました。“御子イエス・キリストの救いの恵みによって、わたしはあなたの道を歩みます”。
皆様、どうかイエスの愛する姿を見つめて、その苦しみを味わってみて下さい。
2022年2月号 掲載
『感謝を込めて』
シスター 高橋 由美子
教会でまだまだ働かせていただこうと思っていましたが、修道会の仕事を中心にする事になりました。これまで、カトリック新聞や時報を読んでいると、お顔が浮かんでくることがよくあります。教会は、修道院の生活ではとても得られないたくさんの出会いがあり、いろいろなことを学ばせていただきました。
親しい方が突然に旅立たれ、葬送のミサに預かるとき、家族の問題を分かち合っていただいたとき、大きな病に侵された方の手術の成功を祈るとき、その奥に働かれる神の想いに触れることがありました。信仰を通しての出会いは、神秘そのものでした。
フランシスコ教皇はこの姿を「教会の旅」と呼んでいます。信仰によって結束した一人一人が集まると大きな実りをもたらしますが、少しずつ関係が変化する歩みを教会の旅と呼び、私たちはその積み重ねを生きているのでしょう。
また、フランシスコ教皇は「出向いていきなさい」(『福音の喜び』)と就任の最初から強調しています。
「教会は、扉を開けて人々が来るのを待っていて、来れば受け入れるだけではだめで
す。新しい道を見出す教会、内にこもるのではなく、自分から外に出ていき、教会に通
わなくなった人々、来なくなった人々や無関心な人々の所に出かけていくような教会で
あるように、一緒に努力していきましょう」と。
「内にこもるのではなく」と表現しているので、出向いて行く向う側の場所を指しているのではないと思います。それは、自分の殻に閉じこもるのではなく、私自身から出ていくことだと思います。そして、日々の歩みの中で、毎日出会う他者とのかかわりの中で、祈りの中で、みんな弱く、先が見えなくても、誰もが大切な存在であると気づくことではないでしょうか。
さらにフランシスコ教皇は「わたし中心から出て行き、あなた中心とした生き方をしてください」と繰り返しています。自分中心から出ていき「あなた中心」「誰もが大切な存在である」とした生き方をすることが「出向いていく」ことではないでしょうか。
拙い文章を長い間、読んでいただきありがとうございました。こころより感謝申し上げます。
※シスター高橋は、2022年度から修道会の役職につかれることになりましたので、3月いっぱいでしろきたブロックの司牧チームを卒業されます。従って今月号をもって巻頭言執筆も最後となります。
巻頭言を始め、信徒とのフランクな親しい交流の中で、信仰の糧をたくさんいただきました。感謝の気持ちいっぱいです。 シスターの今後のご活躍とご健康を、心よりお祈りいたします。
2022年1月号 掲載
『「もっと大事なことがあるやろ!」年の初めに非戦のちかい』
竹延 真治神父
この年始の巻頭言を他の神父様方がお読みにならないことを念じつつ、あえて心のうちにあることを吐露いたします。ゆるしの秘跡の場で「朝夕の祈りを怠りました。」「ミサの最中に別のことを考えました。」「○○さんに腹を立てました。」「エッチなことを考えてしまいました。」などと聞くと、「そんなことどうでもいいでしょ!もっと大切なことがあるのではないですか?」とわたしは心の中で思ってしまうようになった。
罪には軽重がある。ゆるしの秘跡で言わなければならない罪は重い罪から言わなければならないはずだ。その中でも殺人の罪は必ず告白しなければならないと思う。そして殺人を助長するようなことも大きな罪だと思う。殺人が起こる可能性を知りながら、みすみす何もしないでいることも同じように大きな罪だとさえ言えるのではないか。
殺人の罪が最も重い罪だとすれば、日本だけで数百万、世界では数千万の人が死んだあの第二次世界大戦の罪はいかばかり重いものだろうか。戦争は偶発的なことでいとも簡単に起こってしまうし、一度始めれば簡単に収束できるものではない。驚くべきことに、真珠湾攻撃を計画した日本の軍人の誰一人として将来的には日本がアメリカに勝てるとは思っていなかった、というのだ。個別の戦いで一時的に米軍を撃破し、有利な条件で停戦交渉に持ち込み和睦しようと思っていたようなのだ。だが、結果は違った。いったん始まったが最後、前の戦争は「一億玉砕」という当初の意図とは別のスローガンのもとに、多くの人々(特に若者)のいのちを奪っていった。
宗教間の争いで戦争が起こった前例は確かにある。しかし、信仰は本質的に平和を求めることに直結しているはずだ。戦争を食い止めることはわたしたち宗教者に課せられた大きな務めだと思う。いのちを守ることは信仰と宗教の問題だ。決して政治家だけに任せてはいけないのだ。
不戦の決意の表明である憲法九条は、門真市出身の総理大臣幣原喜重郎(しではら きじゅうろう)が草案を作ったと言われている。このいきさつを描いたDVD映画「しではら」をぜひお膝元の門真・大東・今市の信者さんに見てもらいたい。個人的にわたしの持っているDVDを見ていただくことができるので、ご覧になりたい方はミサのあと、ぜひわたしに声かけしてください。この映画を見ることが非戦の誓いの第一歩だと思います。